トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

2021-01-01から1年間の記事一覧

第20回 収穫儀礼、ネ・レバンの死者祭宴、5度目のウジュンパンダン 1977.9.2〜9.25

9月2日 トラジャ入りしてから丸1年たった。ミナンガではライ・タッピの葬式がおこなわれる。葬式が始まるとライ・タッピは名前では呼ばれず、「故人」(to mate)と呼ばれるようになる。昨日の話し合いの結果、水牛は故人の父が提供し、プアンは豚を1頭提供…

第19回 ミナンガの稲刈り、民博展示用の米倉の製作、マネネ、稲刈りと葬式 1977.8.20〜9.1

8月20日 プアンの大きな田んぼ──ミナンガという名前がついている──で稲刈りが始まる(註1)。まずpa’bulo-buloという儀礼がおこなわれる。初穂儀礼の時のように(註2)、ネ・ルケが竹筒で炊いたご飯を白檀の葉にのせて稲穂の上に置き、あぜ道や台所に供える…

第18回 初穂儀礼、マネネ、村を巡る呪医 1977.8.2〜8.19

8月2日 朝8時半頃パレパレを発ち(註1)、トラジャに戻る。ミナンガまで約4時間。帰ってみると、プアンが来ていた。明日、彼女の田んぼの初穂儀礼をおこなうと言う。南山大学の倉田勇先生の一行は、昨夜はマカレのロスメン・インドラに、今日はランテパオの…

第17回 休む暇がない、民博展示用の米倉、ビザの更新 1977.7.17〜8.1

7月17日 午前中、昨夜から読み出した森村誠一『真昼の誘拐』読了。今日は休息日にしようと思っていたのだが、ネ・スレーマンに誘われて、昼食後、バラナ──カンプン・タンティの「隣組」(R.T.)の1つ──でおこなわれた葬式に出かける。テドン・トゥンガ(Tedong…

第16回 収穫の季節、稲の成育儀礼 1977.6.30〜7.16

6月30日 ゲーテガンにあるハジの田んぼの稲刈り(mepare)を見に行く。田植えが2月中旬だったから約4ヶ月で刈り入れということになる。稲が実ることをトラジャ語ではmatasakという。インドネシア語のmasak=「料理する」と同根の言葉だ。実ること=熟するこ…

第15回 ネ・ピアの死、紛失したカメラ出てくる、ミナンガの村落研究続行 1977.6.14〜6.29

6月14日 朝、トアルコの相馬さんの車に乗せてもらって、ウジュンパンダンを発つ。あいにくの雨。いつものように平地から山地に向かう風景の推移を観察しながらトラジャに帰る。ミナンガに戻ってみると、信じがたい悲報が待っていた。ネ・ピアが亡くなったの…

第14回 ウジュンパンダンの休日1977.5.30〜6.13

5月30日 ランテパオに行き、銀行から20万ルピアおろす。チャールズとトービーは3日前にウジュンパンダンに向かったらしい。市場でおみやげ用にコーヒーを3キロ、3000ルピアで買う。1キロ当たり1000ルピアでだいぶ安くなってきた。トアルコ(キーコーヒーがイ…

第13回 ミナンガに戻る1977.5.15〜5.29

5月15日 ミナンガに戻る。プアンがインド・ナ・ライの快気を祝ってマンターダ(manta’da) をおこなった。豚を供犠して、竹筒料理を作り、ご飯とともに祖先に供えて感謝する儀礼で、午後に住居の南西側でおこなわれる。インド・ナ・ライの家族、県知事(インド…

第12回 総選挙、調査の憂鬱再び、カメラ紛失、マカレ生活の終了 1977.4.20〜5.14

4月20日 慣習保存会 (Parandagan Adat) 代表のキラさんとランテパオの葬式を見にいく。供犠した水牛の肉の分配の方法をめぐって葬儀執行者の間で対立があり、ト・パレンゲ(註1)が怒るという場面があった。怒りのポーズがきわめて様式化されていて──片足を…

第11回 トアルコ、田園の憂鬱、田植え、裁判所 1977.3.26〜4.19

3月26日 トアルコ(註1)の駐在員を訪ねてランテパオに行く。正式にオープンした新しい事務所は新設された市場のショッピングセンターの2階にある。話しているうちにナンガラ(ランテパオの東16キロ)に行く用事があるので一緒にどうかと誘われる。ナンガラ…

第10回 マカレのロスメン・インドラに移る、総選挙キャンペーン 1977.3.6〜3.25

3月6日 総選挙の規制に従って、タナ・トラジャ県の県庁所在地マカレのロスメン・インドラに移る(写真1)。今日から選挙が終わるまでの2ヶ月ばかり、トラジャの「町」での生活が始まる。借りた2階の離れ部屋はとてもきれいだ。階下の食堂と台所も使ってよい…

第9回 総選挙にともなう規制、ウジュンパンダンのトラジャ人、マカレの住居捜し 1977.2.14〜3.5

2月14〜15日 明日ウジュンパンダンの警察署に出頭せよとの連絡を受ける。急遽夜行バスに乗り込み、ウジュンパンダンに向かう。午前3時か4時頃、うとうとしていると強い衝撃を感じた。パレパレの手前16キロ付近でバスが(止まっていた)トラックに衝突したの…

第8回 コミュティ・スタディの進展、パロポ旅行 1977.2.2〜2.13

2月2日 カンプン・タンティのコミュティ・スタディのため、近所のインド・カラックの家に話を聞きにいく。彼女はインドネシア語ができないので、つたないトラジャ語で質問する。なんとかカンプン・タンティのトンコナンとその代表者(ト・パンレンゲ)の名前…

第7回 儀礼調査の日々、日本からの旅行者、調査の憂鬱 1977.1.15〜2.1

1月15日 ト・マンカイ (to mangkai) (註1)という儀礼があると聞き、パンロレアンへ。儀礼がおこなわれたのはト・ミナア祭司(ネ・カダッケ)の家だった。生まれた孫のためのものだが、豚を供犠して、竹筒料理を作り、共食するというパターンは他の儀礼と同…

第6回 トラジャのお正月、コミュニティ・スタディに着手 1977.1.1〜1.14

1977年1月1日 元旦。赤飯──アズキではなく、カチャン・メラという赤い豆を餅米に混ぜて炊いたもの──を食べ、(貴重な)インスタント味噌汁をすすって、「おせち」とした。お正月といっても何もすることがないので本を読んでいると、村人が「スラマット・タフ…

第5回 調査その日その日、田起こし、クリスマス 1976.12.13〜12.31

12月13日 午前中、ウジュンパンダンで写させてもらったL. T. タンディリンティン(写真1、2)によるトラジャの系譜を清書する。系譜はトラジャ社会でどのような意味を持っているのか、どのような記憶のパターンに支えられているのか調べてみたい(写真3)。…

第4回 トラジャ入りして2ヶ月、観光、3ヶ月ぶりのウジュンパンダン 1976.11.8〜12.13

11月8日 トラジャに来て2ヶ月余。疲れが下痢に出て、体中を下っていくという感じ。一体ここに何をしに来たのか。これまで個別のデータ収集に振り回されてきたような気がする。トラジャの人々にとって(また、自分にとっても)「生きる」とはどういうことか。…

第3回 メンケンデック郡ティノリン村ミナンガ 1976.10.5〜11.7

10月5日 トラジャ入りしてちょうど1ヶ月たった10月2日にランテパオの教会付属のウィスマからメンケンデック郡ティノリン村カンプン・タンティにあるミナンガに移った(写真1)。県知事の母であるプアン・ミナンガ(写真2)──プアン・トゥア、あるいはたんに…

第2回 どこに住むか、儀礼研究事始め 1976.9.10〜9.29

9月10日 ボンガカラデンへの旅で知り合ったイポさん(県知事夫人の甥)を訪ねて、彼がマネージャーをしているマカレのウィスマ・ヤニというホテルへ行く。ホテルの名前は、県知事の子どもの一人ヤニの名に因んでいる。ヤニは小学6年生、はつらつとした元気の…

第1回 トラジャ入り 1976.9.2〜9.9

はじめに 今から半世紀近く前のことだが、1976年9月から78年1月にかけてインドネシア・スラウェシ島のトラジャでフィールドワークをおこなった。当時、私は大学院の社会人類学専攻博士課程の学生で、文部省のアジア派遣留学生としてインドネシアに留学した。…

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