トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第20回 収穫儀礼、ネ・レバンの死者祭宴、5度目のウジュンパンダン 1977.9.2〜9.25

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9月2日

 トラジャ入りしてから丸1年たった。ミナンガではライ・タッピの葬式がおこなわれる。葬式が始まるとライ・タッピは名前では呼ばれず、「故人」(to mate)と呼ばれるようになる。昨日の話し合いの結果、水牛は故人の父が提供し、プアンは豚を1頭提供することになった。さらに故人の親族が豚を2頭供出。これらの家畜を供犠して、竹筒料理(pa’piong)が作られ、弔問客にふるまわれる。ネ・ピアのときと同様、ライ・タッピがキリスト教徒になったので葬式はキリスト教式でおこなわれた。そのエッセンスは、祈りと説教、歌、それに(伝統宗教の場合と同様)会食である。ライ・タッピの親族は遺体を一族のリアン墓に収めることを希望したが、そのためには稲刈り中のプアンの田んぼのそばを通って行かなければならないので許されず(註1)、遺体は裏山にあるキリスト教徒の墓地に埋葬された。葬式が終わり、夕方、インド・ナ・ライはマカレに戻る。

註1 トラジャでは稲(生)に関することと葬式(死)に関することは混同されてはならない。ライ・タッピの葬式もこの観点からおこなうことができないと主張する向きもあった。第19回1977年8月29日参照。

 

9月3日

 インドネシア大学在学延長の件で、朝、イブ・アニーに手紙を書き、マカレの郵便局から投函する。同時に民博の吉田集而さんからの星座表と妻の友人の矢島直子さんからの本の小包を受け取る。市場近くの雑貨屋トコ・マクムルでウィスキー(ホワイトホース)を買う。ミナンガに戻り、昼食後、道路沿いの田んぼの状況を見る。道路沿いの谷間になっている部分にある広い水田はトンコナンの共有田 (uma mana’)のケースが多い。サル・ブラニ(メンケンデック郡南端の村)に住んでいるポン・リタのイトコがプアンを訪ねてくる。ポン・リタの見舞いの帰りだとのことだった。今日のプアンの夕食は(昨日のライ・タッピの葬式の)豚肉の竹筒料理。昨夜、森鴎外の『雁』を読了。日本人の感覚について考えさせられる。フィールドノートの整理。『民族学研究』用の論文を仕上げなくてはならないが、なかなか時間がとれない。

 

9月4日

 午後、ランダナンのプアン・ガウレンバン宅へ。タイプスクリプトを写す作業を再開する。妻にタイプを打ってもらっている間、ガウレンバン、バタラ(ガウレンバンの母プアン・ブロの弟で、隣接するマリンディン村の村長)と雑談。明後日、稲の成育儀礼(マブルン・パレ)(註2)に続く収穫儀礼(ma’batik pare)があるという。夕方、ブンギン(マカレ郡)のプアンの母方の祖父の村からネネ・ナ・ラソ(プアンのイトコ)の一行が泊まりに来る。稲刈りが遅れているプアンの田んぼの稲刈り応援部隊だ。人数が多く(計8人)、プアンの部屋では収容しきれないので、私たちが寝所として使っているトンコナンの居間(サリ)を提供する。坂口安吾の『堕落論』を読みはじめる。

註2 第16回1977年7月11〜16日参照。

 

9月5日

 午前中、M. ラジャブのトラジャ民族誌(註3)の戦争に関する部分を読む。この民族誌はこれまでも参照したことがあるが、とてもよく書けていると思う。昼食後、マンディ(水浴び)のあと昼寝。午後3時頃起きて、ランダナンの稲作儀礼を見に行く。しかし、儀礼は明日に延期になっていた。予定は未定──ここはトラジャの時間が支配していると改めて思いながら、ミナンガに帰る。プアンの水田ミナンガのト・マカンカン(稲刈り人)は、ブンギンからの応援部隊を含め、50〜60人となる。村長ハジの家の前でアンベ・ナ・アティ(プアンの娘婿)に会い、ランダのネ・レバンの2次葬は9月8日開始だと知らされる(アンベ・ナ・アティはネ・レバンの姻族でもある)、9月11日が祭宴広場に移動する日(ma’pasonglo’)だそうだ。ブンギンからきたネネ・ナ・ラソも交えてプアンと夕食をともにする。プアンの今日の献立は一昨日同様、豚の竹筒料理とヤシ酒。

註3  Radjab, Muhamad. 1952. Toradja Sa’dan. Balai Pustaka.

 

9月6日

 坂口安吾は『堕落論』のなかで問うている。農村(百姓)に文化があるのか。そこにあるのは排他主義と他人に対する不信、そしてドケチ根性ではないかと。しかし、文化とは何か。坂口のように、町をほっつき歩き、酒を飲み、文学を論じるのが文化なのだろうか。彼の言うように、「生きる」ということは不可解な難問だ。トラジャにおいて生きるとは何か。トラジャ民族誌はそれを描かねばならない。村長ハジの田ランテレドにトラクターが投入され、ハジの田では今日から2期作目が始まった。伝統的にはトラジャの稲作は1期作だが、近代合理主義者のハジのことだから「緑の革命」で導入された早生品種の稲を植えているのだろう。夕方よりランダナンに行き、収穫儀礼を見る。今日は祖先に対して小さな鶏を供犠。占いがおこなわれ、結果は吉と出たようだ。夜はガウレンバンの家に泊めてもらう。ガウレンバン宅の夕食のおかずは田んぼの池から取ってきた魚(写真1)と卵焼き。しかしこれは来客用で、子供たちはご飯にロンボ(唐辛子)だけで食べていた。ガウレンバンのような王族の家でも食事はきわめて質素である。彼と奥さん、それに小さな子供たちは住居の南側の部屋(スンブン、あるいはイナンと呼ばれる)に、その他の同居人は居間(サリ)に、そして私のような来客は住居の北側のボド(タンドともいう)と呼ばれる部分に寝る。

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写真1 田のなかに掘られた池の魚を獲る

 

9月7日

 ガウレンバン宅で出された朝食は黒米のおかゆ (bubur)だった。昼までタイプ打ちの作業。昼食はコイの揚げ物、カティムン(ハヤトウリ)。タイプ打ちは半分くらいまで進んだが、少しピッチをあげる必要がある。夕方より収穫儀礼の続きを見学する。今日は子豚を供犠して、田のなかに供物台をしつらえて、神(Puang Matua)に供物を捧げる(写真2)。この儀礼の最中、ガウレンバンの態度にムッとした。村人からタバコをせがまれた彼は私からもらえと言うのだ。私に儀礼を勉強させてやっているのだから、コストは私が払うのが当然だということだろうか。坂口の農村文化についてのコメント──ドケチ根性──を思い出す。腹が立ったのでミナンガに帰ろうかとも思ったが、夜分でもあるので彼の家にもう1泊させてもらうことにした。泊まって気づいたことを列挙してみる。(1)家のなかでもlo’(南)/daa  (北)、sau(南へ)/rekke (北へ)などの方位語が頻繁に使われる。 (2)『トラジャ人とその儀礼』(Orang Toraja dengan Ritusnya)の著者C. サロンベ(註4)の娘がきていた。サロンベはガウレンバンの親族だと知る。 (3) ガウレンバンは毎朝アルック・ト・ドロによるお祈りを唱えている。「アガマ・ヒンドゥー・ダルマ」(註5)としてのアルック・ト・ドロの実践だろうか。

註4 第2回1976年9月10日写真2参照。
註5 第18回8月8日註4参照。

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写真2 収穫儀礼(ma’batik pare)。田のなかで神に供物を捧げる

 

9月8日

 朝、ミナンガに戻る。今日開始予定だったランダのネ・レバンの2次葬は明日に延期となる。相変わらずトラジャ時間だ。午前中、ブンギンの親戚が亡くなったとかで、プアンは迎えにきた孫のソ・リンブン(インド・ナ・ライの長男)と出かけた。私の方は昨夜のガウレンバンとの1件がまだ尾を引いていて、気分が悪い。水田ミナンガの稲刈りは昨日終了したようだ。ト・マカンカンは70〜80人来たとのこと。刈り終えるのに結局2週間以上かかったことになる。夕方、プアンが帰ってくる。孫のフェンティ(ライ・アティの妹)、ブンギンからの一行もミナンガに泊まる。明日からランダのネ・レバンの2次葬が始まる。大きな死者祭宴(dirapai’)になるはずだ。せっかくの機会だからしっかりフィールドノートをとらなきゃと気を引き締める。坂口安吾の『堕落論』を読了。

 

9月9日

 朝、ミナンガの田んぼを見て回る。ネ・パレンゲとインド・ドゥマの家に寄り、共有田(uma mana’)の収穫物の分配法を聞こうと思ったが、詳しいことは教えてくれなかった。午後、ランダに向かう。途中ランテパオのトアルコの事務所に寄り、写真の現像を依頼する。奥村さんはトンドック・リタックに行っていて留守だったので、置き手紙をする。ランダではネ・レバンの遺体はすでに米倉の下のオープンスペースに移されていた(mellao alang)。ランテ(葬儀広場)の死者祭宴の舞台は準備完了。マダンダン村の村長と話す。提供された夕食をパ・レバンの家族、それに昨年来の付き合いとなる自称社会科学者のニョニャ・ロバーツと一緒にとる。

 

9月10日

 人びとは朝から儀礼の準備に忙しい。このように大規模な儀礼は1人の人類学者が観察するにはあまりに大きすぎるという印象を受ける。どこまで観察、調査できるか不安だ。葬儀の実行委員長パ・レバンはランニングとパンツ、運動靴姿で陣頭指揮。イベント会社の社長さんという感じで、張り切っている。昼食後、マンディをしたが、井戸というより泥水のたまり場のようなひどいところだった。このあたりは水事情が悪そうだ。夜、アンベ・ナ・アティが、明日、広場へ移動する儀礼、ディパソンロ(dipasonglo’)で使われる赤い布を持って来る。ネ・レバンのト・バル(寡婦)がトウモロコシを食べている(註6)。豚が供犠され、肉が分配される。マバドンのサークルから葬送歌の歌声が聞こえる(写真3)。明日はBBCと西ドイツのテレビ局が撮影に来るらしい。この死者祭宴は海外のメディアも注目しているトラジャの一大イベントだ。

註6 葬儀の時は、寡婦など喪に服している儀礼的役職者は、米食が禁じられトウモロコシが主食となる。

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写真3 マバドンのサークル

 

9月11日

 葬儀の舞台が広場(ランテ)に移る。朝から観光客がたくさん見物にやって来る。インドネシアの国内観光客も多い。BBCと西ドイツのテレビクルーが到着する。午後、ランテへ移動開始。戦士の格好をした案内役(to ma’randing)(写真4)を先頭に、ネ・レバンの遺体、タウタウ(副葬用人形)(写真5)、親族、多数の水牛が行列して、ランテに入場する(写真6)。葬儀の実行委員長であるパ・レバン(写真7)がスピーカーを通してネ・レバンの経歴、儀礼の意図などを説明する。南部地域(マカレ、サンガラ、メンケンデック)からの一団も弔問客として入場。プアンも黒衣を着て入場した。広場は一挙ににぎやかになる。トラジャの一大文化ショーのはじまりである。ミナンガからは妻とインド・ネゴやネ・コピなどプアンの世話人たちもやって来る。夜は、プアン、インド・ナ・ライ、アンベ・ナ・アティなどと一緒の祭宴小屋の一室で食事を提供される(写真8)。祭宴小屋では男女別々に寝る。

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写真4 戦士の格好をした案内役(to ma’randing)が弔問客を案内する

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写真5 祭宴広場に運ばれるネ・レバンのタウタウ(副葬用人形)

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写真6 ネ・レバンの死者祭宴の舞台となった葬儀広場(ランテ)。
中央に遺体安置所(lakkean)、マバドンのサークル、左に肉の分配のための櫓(bala kayan)、
手前に弔問客接待所の屋根と入場する弔問客、後方に祭宴小屋(lantang)が見える

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写真7 葬儀の実行委員長パ・レバン

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写真8 祭宴小屋で食事をするアンベ・ナ・アティ。
左手で持っているのはヤシ酒の入った竹筒

 

9月12日

 弔問客は水牛や豚、ヤシ酒などの「香典」を持ってやって来る (写真9、10)。こうした「香典」はグループ毎にリストを作って記録される。死者の家族にとっては後に返さなくてはならない負債になるからだ。女性たちが黒衣を来て、竹傘をかぶってランテに入場してくる光景は壮観だ(写真11)。弔問客たちは親族毎のグループに分かれて、祭宴小屋に泊まる。

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写真9 祭宴広場に運ばれる水牛。右のまだらの水牛は黒い水牛より高価とされる

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写真10 「香典」として運ばれる豚

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写真11 弔問客の葬列

 

9月13日

 弔問客接待の2日目。持参したフィルムがなくなり、朝、ランテパオに買いに行く。雑貨屋トコ・アバディでフジクロームを売っていたので購入。銀行(BRI)で10万ルピアおろす。ランダは水不足なので、トアルコの事務所でマンディさせてもらう。プアンの一行は昼過ぎにはマカレとミナンガに戻る。妻も一緒に帰った。私は残って調査を続ける。夕方まで弔問客の接待が続き、闘牛(tedong silaga) がおこなわれる(写真12)。弔問客の水牛や豚の贈与リストはトラジャの葬儀を考えるうえでとてもよい資料になりそうだ。社会学的には儀礼自体よりこちらの方が興味深い。

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写真12 闘牛(tedong silaga)

 

9月14日

 昨夜遅く10時〜12時半、親族会議 (ma’misa-misa)がおこなわれ、今後の水牛の供犠──誰が何の目的で何頭提供するか──と儀礼のスケジュールについて話し合われる。今日はマントゥヌと呼ばれる「供犠」(mantunu)の日。水牛7頭が供犠され、解体される(写真13、14)。夜は、パ・レバンの家族と食事。

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写真13 水牛の殺害。蛮刀で喉元を一撃する

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写真14 供犠された水牛

 

9月15日

 9月12日と13日の弔問客の贈与リストをノートに写す。祭宴広場では残った水牛4頭を殺害。家のなかでは、今後の水牛供犠についての協議がおこなわれる。下着の替えがなくなり、アンベ・ナ・アティとサックンのトラックに乗せてもらってミナンガに取りに帰る。分け前の肉を持ち帰る。民博の吉田さんからの手紙が来ていた。

 

9月16日

 朝、マンディをする。ネ・タンケ、アンベ・ソ・リンブ、村長ハジがプアンを訪ねてくる。ケペ(メンケンデック郡)にある県知事の田んぼが訴訟になっているらしい。アンベ・ソ・ロトの葬儀後、水田の相続をめぐって問題化したようだ。昼食後、再びランダへ。アランアラン(マカレ郡)からは車がなく、炎天下を歩いて行く。供犠の続き。今日は23頭の水牛を供犠。1頭平均40万ルピアはするらしい。そうすると今日だけで920万ルピアほど散財したことになる。まさに「誇示的な消費」である。水牛の首級は関係するトンコナンに、肉は社会全体に分配する(写真15、16)。夕方、倦怠感を覚え、熱っぽい。風邪を引いたか。夜の親族会議では死者祭宴の一環としておこなわれる闘鶏が話題に上る。州知事からの許可が必要らしい。

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写真15 水牛の首級の分配

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写真16 肉の分配

 

9月17日

 朝、水牛・豚の提供/供犠についてのノートを写させてもらう。また、ネ・レバンの親族関係を聞く。体調がすぐれず、昼前に引き揚げる。帰路、ランテパオでトアルコの事務所に寄り、先日依頼したフィルムの現像のことを尋ねる。清野さんによると、フィルムはすでにウジュンパンダンに送ったとのこと。ミナンガでは午後にインド・ナ・ライとフェンティ、夕方にはブンギンからの客が来る。

 

9月18日

 疲れが出たので休息日を決めこむ。午前中、ランダのフィールドノートを読み返し、整理。昼寝。野坂昭如の小説「あめりかひじき」「火垂の墓」などを読む。チェンケ(クローブ)の件で、アンベ・ナ・アティが来る。プアンが大きな声で何かしゃべっている。夕暮れとともにトラジャの1日が終わる。体調は回復、熱も下がった。

 

9月19日

 ランテパオへ。銀行(BRI)でお金をおろそうと思ったが、時間外で引き出せず。明日のウジュンパンダン行きのバスも満席で予約できず。民博展示用の米倉を製作した大工ポン・ランガのところに行き、吉田さんからの写真を渡す。夕方、ミナンガへの帰路、マカレのインド・ナ・ライの家に寄る。夫のアンベ・ナ・アティによると、ランダのネ・レバンの葬儀に関連した闘鶏の件は、タナ・トラジャ県の今年度分の許可枠はなくなったということで、パ・レバンがウジュンパンダンに行き、州知事に直訴することになったらしい。

 

9月20日

 昨日に続いて、ランテパオへ行き、BRIで10万ルピアおろす。昼食にワルン(屋台店)で焼きそばを食べ、ウジュンパンダン行きのバスの切符を買う。ミナンガへの帰路、吉田さんに送るために米倉の屋根の写真を撮る。ネ・ムロらがトンコナンの共有田の稲を分けていたので、話を聞く。ミナンガのプアンの米倉の前では、収穫した稲束10束を結わえ、大きな稲束(ropa)を作る作業がおこなわれる(写真17)。ネ・シッティとペトロスが稲番のために米倉下のオープンスペースに泊まる。インド・ナ・ライからウジュン・パンダンにいる娘(ライ・トゥンバ)に届けるための段ボール1箱分の野菜が届く。

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写真17 収穫した稲束を大きな束(ropa)にまとめる

 

9月21日

 ウジュンパンダンへ。前回は7月29日に行っているので、1ヶ月半ぶり、5度目である。夕方5時過ぎに、新しくできたバスターミナルに着く。ベモ(乗り合い自動車。ウジュンパンダンではペテペテという)に乗り換えて、津田さんのところへ。津田さんご夫妻は近く日本に帰るということで、今日はトアルコの相馬さん、大原さん、日本鋼管の園田さんを交えてのお別れの食事会だった。「ちょうどいいところに来たね」と津田さん。デザートに中国人が作った本物の月餅をいただく。仲秋月餅である。

 

9月22日

 朝、警察、州庁、裁判所などを回る。裁判所では判例集(Masalah2 Hukum Perdata)のトラジャと南スラウェシ関係の部分のコピーを取る。例の如く、スラウェシ通りのインド料理屋でマルタバックを食べる。午後、モンギシディ通りのトアルコの事務所に寄って、現像済みの写真を受け取る。本屋(Gunung Mulia)でトラジャ語の辞書とJ. クロイトのポソ・トラジャについての本(インドネシア語)を買う。夜、ボトレンパンガン通りのインド・ナ・ライの娘ライ・トゥンバを訪ね、インド・ナ・ライからのおみやげの野菜を渡す。ミナンカバウ出身の若者がいて雑談する。

 

9月23日

 三井物産の藤井さんを訪ねる。藤井さんは民博展示用の米倉のシッピング業務を担当した人である。彼によると、私はポン・ランガの米倉製作の「検査官」と見られていて、「悪役」になっていたらしい。「検査官」としての謝金10万ルピア受け取る。複雑な気持ちだ。津田さん宅に戻って、昼寝。昼寝後、写真屋に写真を取りに行く。その帰り、トアルコの相馬さんに借りた本を返し、グヌン・バトゥプティ通りのラシッドの家に寄って、南スラウェシの文化研究誌Bingkisan第2号を購入。夜、日本鋼管の園田さんからカニをごちそうになる。

 

9月25日

 朝、写真のピックアップのためにトアルコの事務所に行く。清野さんがいたが、熱を出して唸っていた。彼に頼まれて、スラウェシ通りの果物屋で果物やジュースなど買う。明日トラジャに帰ることになったので、衣類(ジーンズ、バティックシャツなど)を購入する。藤井さんからいただいた謝金はほぼ使ってしまった感じだ。夜、ラシッドに会い、明日トラジャに帰ることを伝える。

 

※次回は1/11(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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