トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第21回 収穫後の稲の分配、「呪医」ネ・スレーマン、パンロレアンのマブギ儀礼 1977.9.26〜10.12

f:id:koubundou2:20220105111722j:plain

 

9月26日

 ファ・リタ(バス会社名)でトラジャに帰る。パレパレ(ウジュンパンダンから北へ約150キロにあるブギスの港町)を過ぎたあたりでバスのタイヤがパンク。それまでは快適に飛ばしていたのだが、物事がスムーズにいかないのがインドネシアだ。タイヤを修理し、ミナンガに着いたのは夕方6時すぎだった。番犬のネキが吠え、8月から飼い始めた猫のカンカン(写真1)はダポ(炉/台所)(写真2)のススにまみれて真っ黒になっていた。プアンはひ孫(ampo uttu’)の誕生会でマカレに行っていたらしい。ひ孫はプアンのことを「ウットゥ、ウットゥ」と呼ぶそうだ。プアンはネネ・ウットゥ(nene’ uttu’ 曾祖母)である。LIPI(インドネシア科学院)と民博の吉田集而さんから手紙。

f:id:koubundou2:20220105104606j:plain

写真1 トラジャで飼っていた猫のカンカン

f:id:koubundou2:20220105104639j:plain

写真2 プアンの番小屋のダポ(炉/台所)。料理壺(クーリン)がかかっている

 

9月27日

 少々風邪気味。インドネシア大学在学延長の件で、イブ・アニーに手紙を書く。プアンの水田で収穫した稲束を数え、収穫物の分配がおこなわれる(写真3)。その方式は以下の通り。来期用の稲の種子(banne)、税金、肥料代などを稲束に換算して差し引いたうえで、水田所有者(プアン)と耕作者(to pariu)の間で折半する。耕作者たち(写真4)の取り分は、それぞれの働き(労働日数)に応じて分ける(6月に亡くなったネ・ピアにも配分された)。また、田植えのときの労働も日数に応じて細かく計算する。最後に稲束に換算し、分配がおこなわれる。プアンの異母キョウダイである村長のハジがノートにすべてを記録する。プアンの取り分の稲束は米倉に納められ、来年の耕作者を決定する。こうして、昨年12月から始まった稲作の1年が終わる。次のマカレ市場の日に豚を買ってきて、収穫儀礼 (ma'rambu banne)をおこなうとのことだ。

f:id:koubundou2:20220105104703j:plain

写真3 収穫した稲束を数える

f:id:koubundou2:20220105104716j:plain

写真4 プアンの水田の耕作者たち(to pariu) 

 

9月28日

 吉田さんに手紙。米倉のウキラン(彫りもの)の文様について書く。3つ目のレポートである。これで民博用米倉の製作に関わる義務は一応果たしたことになる。昼、マカレに行った妻が郵便局で実家から送られてきた小包をピックアップしてきた。そこには「日本の味」が詰まっていた。

 

9月29日

 朝、マカレの郵便局から吉田さんに手紙と写真を送る。8月に来た南山大学の倉田勇先生の学生さんからプアンに毛布が送られてきた。野菜の種も入っていたので、畑に蒔くことにする。親父からも手紙が届く。午後、ネ・レバンの死者祭宴(註1)に関連した闘鶏の見学にランダへ行く。闘鶏にはトラジャ各地から大勢(数千人?)が集まって来る。「血がのぼる」ような経験(註2)というが、人びとはなぜこれほど闘鶏に熱中するのか。その心理的、社会的、経済的意味は? ランダに泊まる。

註1 第20回9月9〜17日参照。
註2 第7回1月15日参照。


9月30日

 昨夜は寝袋のなかに蚤がいたうえ、明け方鶏の声がうるさくて、眠れなかった。パ・レバンからネ・レバンの系譜と弔問客リストの説明を聞く。予定した仕事が済んだので、昼頃ランダを去る。今日は9.30事件の日で休日(註3)。闘鶏も休みだったが、開催期間はあと1、2日ほど延長されるようだ。ミナンガに戻ると、妻はインド・ナ・ライと県知事にウジュンパンダンのおみやげを渡すためにマカレに行っていて留守だった。プアンもマカレに帰り、とても静かだった。プアンの番小屋で寝泊まりしているネ・スレーマンが近所の少女の具合が悪いということで、治療に呼ばれる。彼は呪医というわけではないのだが、病気や生薬についてある程度の知識があり、頼まれれば、投薬、マッサージなどにより治療を施すらしい。高木彬光『白昼の死角』を読了。

註3 1965年9月30日にインドネシアで起こった軍事クーデター(未遂)事件。

 

10月1日

 早朝、トアルコの相馬さんが来て、トアルコの宣伝兼記録映画撮影の手伝いを依頼される。時期は10月6日から1〜2週間くらい。12日にトンドック・リタック(セセアン郡)でコーヒー精選加工工場のオープニングの式典があるとのことで、それと関連した企画のようだ。トアルコにはとてもお世話になっているので、できるかぎりのことはしたいと思う。相馬さんが帰ったあと、疲労感があったので、熱を測ってみると37度2分。なかなか風邪が抜けない。そのため日中ごろごろして過ごす。夕方、ネ・スレーマンが昨日に続いて少女の治療をおこなうというので、散歩がてらその様子を見に行く。彼の見立てによると、病気の原因は、彼女の父親がキリスト教徒になった際、祖先に供物を捧げるのを怠ったため、祖先が怒って子ども(少女)に腹痛をもたらしているということだった。ランダのネ・レバンのような大きな死者祭宴は当然興味を引くが、村のこうした小さな事件もまた面白い。

 

10月2日

 サンペ・ボタのところで、米倉の新築儀礼(mangrara alang)がおこなわれ、豚が供犠される。米倉は3年前に建てたらしいが、今年の稲の収穫儀礼を兼ねておこなったとのこと。行きがけにカトリック教会の新任の神父(ベルギー人)に会う。以前のフィリピン人神父が陰鬱な感じの人だったのに対し、今度の神父は気さくで明るい人柄である。午後、マカレに行っていたプアンがインド・ナ・ライと一緒にミナンガに戻って来る。夕方、ネ・スレーマンが再度少女に治療を施すというので様子を見に行く。ビワの葉(daun lingkua)を患部に当てて棒を使ってマッサージし治療する(写真5)。ハジに代わってネ・コマンダンがティノリン村の村長になるらしい(明日ゲーテガンの郡役場で公示)。彼は王族層ではなく、平民層(to makaka)の出身だ。「民主化」だろうか。明日はプアンの田んぼの収穫儀礼がおこなわれる予定だ。

f:id:koubundou2:20220105104746j:plain

写真5 腹痛を訴える少女を治療するネ・スレーマン

 

10月3日

 午前中、ミナンガでは収穫儀礼がおこなわれる。トンコナン・ブントゥ・タンティのト・パレンゲ(ネ・サッケ)が儀礼を取りしきる。豚を1頭供犠。この儀礼は神々に対するものなので、マンターダ(祖先祭)の時とは異なり、トンコナンの東北隅でおこなわれる。いわゆる「東側の儀礼」(aluk rampe matallo)である(註4)。米倉から取り出した幾束かの稲のうえにバナナの葉を敷き、竹筒料理の米飯と豚肉などがのせられた供え物を捧げる。米倉の西側でも祖先(註5)に対して供え物をする。神々と祖先に供物を捧げ、祈祷を唱えたあと、参列者が共食する。供物の一部を井戸、米倉、台所などに持って行き、米粉で印を付ける。体調が優れず、午後昼寝。抗生物質を飲んだら、喉の痛みはとれた。

註4 第7回1月27日参照。
註5 祖先(to dolo)は神(deata)と死者(to mate)の間で両義的な範疇を構成している。「神霊化した死霊」(bombo mendeata)という表現があるので、祖先とは神霊化した死者と考えられるのかもしれない。

 

10月4日

 朝、『民族学研究』への投稿原稿を書き直す。前稿は議論が多岐にわたりすぎていたので、もっと焦点を絞ることにする。10時すぎ、鍛冶屋のネ・ランマンに儀礼の予定などを聞きに行く。パンロレアンでマブギ(ma’bugi’)と呼ばれる儀礼(註6)があるらしい。帰りに、村役場に寄り今年度の村内の儀礼の執行状況を写す。まだ16件しか報告されていない。例年に比べて少ないのか、それとも報告漏れが多いのか。昼寝後、マンディ(水浴び)をしようと思って井戸に行ったが、水がほとんどない。乾期のせいか。

註6 マブギ儀礼は病気、災難、不作からの回復儀礼としておこなわれるというが、これはma’bugi’ rompoと呼ばれる収穫を感謝する儀礼としておこなわれた。エリック・クリスタルは1971年にマカレでおこなわれたマブギを映画に撮っている。この映画を私は1976年のクリスマスに県知事から見せてもらった。第5回1976年12月25日参照。

 

10月5日

 朝、2日ぶりにマンディ。水量は相変わらず少ない。井戸の水が涸れたというより、水不足で近隣の住人もこの井戸の水を使うので水位が低下しているようだ。昼、トアルコの相馬さんが来る。コーヒー精選加工工場のオープニングセレモニーを収録するカメラマンの到着は早くても9日の夕方になるそうだ。フィルム15本分の写真が出来あがり、届けてくれる。夕方、インド・セサに写真を持って行き、雑談する。一昨日のプアンの水田の種子儀礼にはケペ(メンケンデック郡)で葬式があっため参加できなかったとのこと(神祭と葬儀の混同はタブー)。彼女の世帯(12人家族)の1日の米の消費量は稲束25〜30束(約5〜6リットル)。朝は昨夜の残りか、粥か芋で、いつも米を食べられるわけではない。ルケの家では収穫前2〜3ヶ月は米がない日々が続くという。夜、ネ・スレーマンがブル・パラ(Bulu Pala 毛むくじゃらの手)という名の男の子の民話を語ってくれる。結末部でブル・パラは鶏ともに天に昇り、星になる。トラジャでは南十字星はマヌック(鶏)と呼ばれる。

 

10月6日

 ルケが朝早く水を汲んできた物音で目が覚める。この際、朝の井戸端の様子を見ておこうと思って、朝まだきの5時頃マンディに行ってみる。子どもたちはもう水汲みに来ており、マンディもしていて、結構賑やかだ。帰宅後寝直し、再び起きたのは9時半だった。午後、ランダナンのプアン・ガウレンバン宅に口碑伝承をタイプしに行く。パンロレアンで予定されているマブギは今月半ば頃になるらしい。夕方、ミナンガ方面のミニバスがなかなか来なかったので、K7キロピトゥ(マカレより7キロの地点)まで歩く。歩きながら、トラジャの夕暮れの風景を堪能した(写真6)。黒ずんでいく山際と紫がかった空の色合いがなんとも美しい。K7でミニバスをつかまえ、ミナンガに戻る。

f:id:koubundou2:20220105104810j:plain

写真6 トラジャの夕暮れ

 

10月7日

 朝、『民族学研究』に寄稿する「トラジャ・フィールド・ノオト」の原稿を書く。妻はマカレの市場へ。ガソリン価格が下がったせいか、10月よりミニバスの料金が値下げとなり、1キロ当たり4ルピアとなる。マカレまで50ルピア。定員も12名厳守のルールが課せられる。午後、パンロレアンへ。マブギ儀礼のスケジュールを確かめに行ったのだが、実は儀礼は昨日から始まっていた(註7)。現場で確認しないと本当のことはわからない。今日は「マリンバ」(ma’limba)という儀礼がおこなわれた。カンプンの境界をマア(maa‘)と呼ばれる聖なる布をかざして巡り歩き、タバン(リュウゼツラン)(註8)の葉を採ってくる。私が着いたときにはマリンバの一行はすでに出かけたあとだった。残っていたト・ミナア祭司からマブギ儀礼について説明を聞く。夕方、一行が歌 (gelong)を歌いながら戻って来て、夜遅くまでマブギ・ダンスを踊る(写真7、8)。ミナンガでは、生後13日の子どもの樹木葬があったらしい。こちらの方は残念ながら見ることができなかった。稲刈り後、人びとが天秤で稲を運んでいる (ma’lemba) 姿が目につく(写真9)。

註7 このマブギは正確にはパンロレアン=パダン儀礼共同体においておこなわれたものである。パンロレアンとパダンは行政的には別々のカンプンだが、儀礼の執行においては1つの儀礼共同体(penanian)を構成している。
註8 第17回写真3参照。

f:id:koubundou2:20220105104827j:plain

写真7 マブギ・ダンスのサークル

f:id:koubundou2:20220105104839j:plain

写真8 マブギ・ダンスを真似る子どもたち

f:id:koubundou2:20220105104936j:plain

写真9 天秤で稲を運ぶ(ma’lemba)

 

10月8日

 朝、バラナ(カンプン・タンティのR.T.=隣組の1つ)のアンベ・ゴヤンのところでおこなわれたマパウンディ(ma’pa’undi)儀礼を見に行く。これはすでに葬儀を終えた死者に対し、追加の供犠をおこなうものである。今回の儀礼は、2年前の彼の叔母の葬儀で水牛を供犠できなかったので、水牛1頭を追加して供犠するというもの。形式はマンターダ(祖先儀礼)に似ていて、参加者はクーリン(料理壺)でご飯を炊いて持ち寄り、供犠した水牛肉の竹筒料理を作って共食する。午後2時頃切り上げて、パンロレアンのマブギの続きを見に行く。今日は「みそぎ」(mendio)の日で、2キロばかり離れた泉に行き、東面してタバンの葉を振りながら祈祷を唱え、顔や手を水で洗う。これにより無病息災が祈願されるという。マブギ・ダンスを踊ったあと、一行は帰路につく。私も疲れ果てて家に帰る。

 

10月9日

 マカレにタバコを買いに行く。ついでにカセットテープなども購入。ミナンガのプロテスタント教会でキリスト教徒の収穫祭を見学する。収穫を感謝するという点ではパンロレアンのマブギ儀礼と同じなのだが、一体何が違うのだろうか。儀礼は目的では理解できない。午後、パンロレアンへ。途中、トンコナン・サニックに寄る。新築していたトンコナンも米倉も完成。収穫した稲を新しい米倉に入れていた。パンロレアンに着いてみると、今日は、儀礼は休みだとのこと。しかたなく、雑談して帰る。

 

10月10日

 朝、8時、パンロレアンへ。マブギ儀礼は最終日で、la’pa’(終了)の日である。今日の儀礼は広場(パブギラン pa’bugiran)でおこなわれた。参加者は竹筒で炊いたご飯を担いで広場に向かう。竹筒にはタバンの葉が付けられている(写真10)。昼近くになって準備が整い、ト・ミナア祭司を先頭に、聖なる布マアを持ったト・パレンゲ、インド・ブギ(ブギの母)、アンベ・ブギ(ブギの父)と呼ばれる儀礼の役職者、竹筒料理を担いだ村人が行列を組んで2キロばかり離れたマブギがおこなわれる広場に移動する。広場の東北隅には白檀(sendana)の樹があり、その根元に布を張り、4種類の鶏を供犠し、竹筒の米飯とともに、神々と祖先に供物を捧げる(写真11)。広場では人びとが輪になってマブギ・ダンスを踊る。インド・ブギは白衣にビーズ細工の装身具カンダウレを着けている(写真12)。マカレから呼ばれたト・カロンドナン(to karondonan)がトランス状態に入り(写真13)、ナイフで目を突き刺したり(写真14)、高い竹竿の上に登って踊ったりする(写真15)。観客は1000〜2000人位か。マブギの歌声が山野にこだまする。

f:id:koubundou2:20220105105002j:plain

写真10 竹筒で炊いたご飯を担いで広場に向かう。竹筒にはタバンの葉が付けられている

f:id:koubundou2:20220105105019j:plain

写真11 白檀の樹の根元で、神々と祖先に供物を捧げる

f:id:koubundou2:20220105105032j:plain

写真12 広場でのマブギ。
インド・ブギ(中央)はビーズ細工の装身具カンダウレや儀礼用の剣を着けている

f:id:koubundou2:20220105105104j:plain

写真13 トランス状態に入るト・カロンドナン

f:id:koubundou2:20220105105119j:plain

写真14 トランス状態で目にナイフを突き刺す

f:id:koubundou2:20220105105130j:plain

写真15 高い竹竿の上に登って踊る。後方中央にマブギ・ダンスの輪が見える

 

10月11日

 朝、ケペの葬式を見に行く。「葬送」(miaa)の日。マバドン(葬歌)とウンバティン(儀礼的涕泣)を録音する。ケペはマバドンで有名だ。ウンバティンではかなりの人が失神する。遺体は死者自身が掘った近くの岩穴 (lo’ko’ batu)に納められた。すでに4人の遺体が納められているという。午後、トアルコのコーヒー精選加工工場のオープニングセレモニーに出席のためランテパオへ行く。夜、清野さん、杉山さん、それに来年1月に赴任するという細谷さんとレストラン・ラフマットで食事。ゲストハウス・バトゥ・トモンガに泊まる。

 

10月12日

 朝、トアルコのコーヒー精選加工工場(写真16)のあるトンドック・リタックへ。木村コーヒーの大木さん、大原さんたちも来ている。在ウジュンパンダン総領事の寺田さん、ウジュンパンダンの日本人会代表として園田さん(Sermani Steel Corp.)の顔も見えた。トンドック・リタックで調査しているトービーとチャールズも参列。水牛1頭、豚3頭を供犠。村人にその肉を分配する。懇親会はマカレの社会会館(Gedung Masyarakat)でおこなわれ、こちらは県知事夫人が洋風の食事を準備していた。そのあとパダマランのコーヒー農園を見学して、5時過ぎにランテパオに戻る。私がトラジャの星について興味を持っていると言うと、大原さんが星座の話をしてくれ、野尻抱影の本などを教えてくれた。黙々と仕事をこなしていたインドネシア人カメラマンにはとても好感が持てた。日本人の来客たちはトラジャ・コテージ(当時、トラジャで最高級のホテル)に宿泊。ラフマットで夕食のあと、トービーとチャールズと彼らが滞在しているウィスマ・マリアのロビーで9時半頃まで喋る。昨日同様ゲストハウス・バトゥ・トモンガに泊まる。

f:id:koubundou2:20220105105149j:plain

写真16  トアルコのコーヒー精選加工工場

 

※次回は1/25日(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

f:id:koubundou2:20220105105252j:plain

トラジャの女

Copyright © 2021 KOUBUNDOU Publishers Inc.All Rights Reserved.