トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第8回 コミュティ・スタディの進展、パロポ旅行 1977.2.2〜2.13

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2月2日

 カンプン・タンティのコミュティ・スタディのため、近所のインド・カラックの家に話を聞きにいく。彼女はインドネシア語ができないので、つたないトラジャ語で質問する。なんとかカンプン・タンティのトンコナンとその代表者(ト・パンレンゲ)の名前を聞き出した。夜、ルケがこの前録音したネ・ピアのスーリン(竹笛)が聞きたいというので、カセットテープを再生する。ネ・ルケ、ネ・ピア、ネ・スレーマン、アンベ・ロモも集まってきて、みんなで聞き入った。ルケはケペにいる母親が嫌いで一緒に住まず、祖母のネ・ルケとミナンガで暮らしている。実父は離婚してカリマンタンのバリクパパンにいるという。トラジャの離婚率はきわめて高いらしい。

 

2月3日

 午前中、タンティのネ・ムレに話を聞きにいく。ネ・コマンダン(註1)の叔父にあたる人物で、ト・パレンゲだが、伝統宗教(アルック)についてはあまり知らなかった。帰宅して、マンディ(水浴び)。続いて昼食、昼寝。夕方、大学院の先輩である小野(鍵谷)明子さんと小松和彦さんから手紙が届く。夜、返事を書く。

註1 第4回1976年12月2日に登場するタンティ在住の元警察官。1977年10月にハジに代わってティノリン村の村長に任命された。

 

2月4日

 久しぶりにランテパオへ。まず、BRI(Bank Rakyat Indonesia インドネシア人民銀行) でインドネシア大学文学部に授業料10万ルピアを振り込む。インドネシアでの私の身分はインドネシア大学の学生なので、授業料(在籍料)を払わなければならないのだ。ついで、LIPIに出す報告書のコピーを取りにトラジャで唯一のコピー屋に行くが、機械の故障でコピーはできなかった。そのあと、先月マブア儀礼がおこなわれたマダンダン村で知り合った米国コーネル大学の人類学者トービーとチャールズに会いにいく。彼らはその後体調が思わしくなく、ウジュンパンダンの病院で診てもらったそうだ(とくに問題はなかったとのこと)。さらに、トアルコ・ジャヤ(P. T. Toarco Jaya 日本のキーコーヒーが1976年にインドネシアで設立した合弁会社。 ToarcoとはToraja Arabica Coffee の略。以後トアルコと言及)の日本人駐在員がいると聞き宿舎を訪ねてみたが、ウジュンパンダンに行っていて会えなかった。ランテパオからの帰路、アランアラン (ランテパオから南に約5キロ地点)付近で、田植えをしていたので、写真を撮る。メンケンデック郡あたりよりだいぶ早い。大きな田んぼで5人で共同所有しているという。田植えは女たちの仕事のようだ。ミナンガに戻ると、夕方、ネ・ピアができたてのトゥアック(tuak ヤシ酒)(写真1)──サトウヤシの樹液を発酵させたもの──を持ってきてくれる。甘くておいしい。アルコール分は3〜5%。

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写真1 ヤシ酒の採取(2021年7月19日追加)

 

2月5日

 タンティのネ・ボドを訪ねるが、畑に出ていて留守。奥さんから家族のことなどを聞いた後、タンティからバラナ(註2)に抜ける道を歩いてみる。掘り棒(pekali)(註3)で田を作っている人を見かける。掘り棒1本で田を作るとは!と感心する。昼食後、ルケとネ・ルケから長臼(issong pandan)で米の搗き方を教わる(写真2)。リズムの取り方が結構難しい。竹杵で米を搗くと太鼓を打っているようなとてもいい音がする。生活の音楽だ。最近のパターンで、午後、雨が降る。

註2 カンプン・タンティの「隣組(R.T.)」の1つ。カンプン・タンティはアバトゥ、カラン、バラナ、タンティ、ミナンガの5つの隣組からなっており、バラナはタンティの北西に隣接している。
註3 第3回写真10参照。

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写真2 米の搗き方を教わる筆者(山下淑美撮影)

 

2月6日

 さえない日曜日だった。久しぶりにランダナンのプアン・ガウレンバンを訪ねたが、留守。ミナンガに戻ってマンディして、読書しながら昼寝。妻は井戸端で洗濯。午後、また雨。他は何もなし。

 

2月7日

 昨日空振りに終わったプアン・ガウレンバンに会いにランダナンに行く。大通りでミニバスを待っている間、たまたま村長ハジのところに来ていたピンランのブギス人と話す。彼によると、トラジャ人がブギス人と結婚すると、トラジャ人がブギスの慣習に従うという。また、スラウェシの「原住民」(orang asli) はトラジャであり、後からやってきたブギスによって山地に追いやられたという。ガウレンバン宅でトラジャの口頭伝承をタイプさせてもらい、「授業料」としてとりあえず5000ルピアを払う。残りの5000ルピアはタイプ完了時に払うこととする。お金を払うのは「文化」を金で買うような気がしてイヤな感じがしたが、何らかの「お返し」だと考えれば納得がいく。お金を受け取るとき、ガウレンバンは少し恥ずかしそうな様子を見せたが、彼からお金を渡された奥さんはサッと受け取って奥に引っ込んだ。男と女で金銭に対する考え方が違うのかもしれない。トラジャ入りした頃ドゥマさんが、トラジャでは男性がお金の話をするのは「恥ずかしい」(siri’)ことだと言っていたのを思い出す(註4)。タイプを打っている間、ケペの老女が来て、村内の争いごとを訴えていた。トラジャ語だったのでよくわからなかったが、ガウレンバンのような王族が裁判官的な機能を果たしていることが分かって興味深かった。

註4 第2回1976年9月11日参照。

 

2月8日

 ハジの田んぼを見にいく。メバリ市場に近いところにある2〜3ヘクタールはありそうな広い田んぼである。どのくらい収穫があるのかと居合わせたハジの奥さんに聞いたが、笑って答えなかった。近代合理主義者のハジが最近導入したトラクターが動いていた(写真3)。1台で50人分の仕事をするという。さすが文明の力だ。トラジャでは水牛はもっぱら供犠のために飼育されていて、犂耕に使われることはあまりないが、ときたま見かけることもある(写真4)。トラクターの導入によりこれまで田んぼで働いていた人たちはどこへいったのか。ハジが所有している山では男たち十数人が、掘り棒で木を植えるための穴を掘っていた。この近くにある県知事の山ではつまようじを作るために松を植えていると聞いている。ハジの山の植林もそうした事業を目指してのことかもしれない。こうした労働の提供に対しては食事(バナナの葉の上に盛られたご飯と少量の肉)が提供される。これが労働力の提供に対する支払いで、十数人分のご飯を用意するのに8リットルの米がいるという。田起こしが終わると、次の農作業は播種──稲籾を播く──である(写真5)。

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写真3 トラクターによる田起こし

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写真4 水牛による犂耕

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写真5 播種。種籾を播く

 

2月9日

 午前中、ケペのカンプン長に会いにいくが、マカレの市場に出かけていて不在。そこでタンティのネ・タッピ・サクルさんのところに行き、タンティのトンコナンについて聞く。タンティではトンコナンはプアン(王族層)、トマカカ(平民層)、カウナン(「奴隷」層)の3つにランク付けされているが、「カウナン」という言葉は今日とてもセンシティブで公に口にすることはできないらしい。午後、昼寝。雨が降り、外出できず。家で読書。昨夜読んだフレーザーの『金枝篇』のなかに未開人は文明人を、文明人は未開人を理解できないというようなことが書いてあった。歴史的・文化的背景が違うことを認識したうえで、どのようにして互いを理解可能にするのか。人類学はそのための学問ではないのか。

 

2月10日

 LIPIに出す報告書のコピーを取りにランテパオに行くが、機械の故障は相変わらずで、コピーできず。ウジュンパンダンから技師が来ないと直らないという。そこでカーボン紙を買い、妻にタイプを打ってもらい、カーボンコピーを作ることにした。4部のコピーが必要なのだが、事情を説明し、残り3部はLIPIでコピーを取ってくれるように頼むことにする。タイプを打ってもらっている間、昨日会えなかったケペのカンプン長に会いにいく。温和そうな好々爺で、ケペのトンコナンのことなど教えてもらう。ハジは脱穀機も購入。金があるのか、農業の機械化にとても熱心だ。LIPIからの手紙が届いて、来るべき総選挙の間はおとなしくしているようにと書かれていた。2月15日から総選挙のキャンペーンが始まるという。そういえば、ガウレンバンが選挙キャンペーン用のバティック・シャツを着ていた。

 

2月11日

 先延ばしにしていたパロポ旅行に出かける。ランテパオより60キロ、ミニバスで3時間ほどの距離である。旅に出ると風景が変わり、考えさせられる。車窓に拡がる平らな大地。「平野」とは平べったいものだと改めて思う。そして見知らぬ町の、見知らぬ人びとの目や言葉。パロポはブギスの分派であるルウ人の町である(写真6)。ルウ人はおおらかだという印象を受ける。オランダ統治時代、日本統治時代を通してトラジャはルウ県の分県(onderafdeeling) だった。とりあえず今夜泊まる宿にチェックイン。夕食後、近くの映画館で風変わりなインド映画を見る。

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写真6 パロポの街角

 

2月12日

 朝、海を見に海岸に出てみる。私は港町(山口県下関市)の出身なので、海を見ると落ち着く(写真7)。海辺近くに抗上家屋が並ぶ集落があったりするのは熱帯マレーの風景だ(写真8)。役場に寄って統計資料などを見せてもらう。私が日本人だと知って、役場の人が日本統治時代のことを語り出す。日本の歌は「バグース」──bagus インドネシア語で「素晴らしい」の意──だった。日の丸に敬礼した。ケンペイタイは恐ろしかった。昔は日本語を話せたが、今では忘れてしまった・・・。こうした語り方はインドネシアではどこでも同じようなパターンだ。町を歩いていると、フィリピン人や韓国人と間違えられる。彼らはマリリ(パロポの東178キロ)のニッケル鉱山に出稼ぎ労働者として来ているらしい。日本人に見られないと何故かムッとする。夕方、ワルン(屋台店)でコーヒーを飲んでいると、居合わせたルウ人の若者とシリ(siri’ 恥)についての話になった。シリはブギスでも重要なコンセプトだ。

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写真7 パロポの海辺

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写真8 海辺近くの集落

 

2月13日

 パロポからウォトゥ(パロポの東130キロ)まで足を延ばそうかという誘惑に駆られたが、今回は思いとどまってトラジャに戻る。おみやげに市場でドリアン6個とランブータン1籠を買う(写真9、10)。パロポ側から登っていくと雲が切れるあたりからトラジャの領域となる。ウジュンパンダンから来るときより、平地から山地への変化は急激である。パロポから見たトラジャの山は平地民にとっては異世界と映るだろう。トラジャとはルウ語のto-ri-aja=「上の人」「山の人」に由来する語である。「山の人」の世界──ミナンガに戻ってみると、ウジュンパンダンの津田さんから荷物が届いていた。食料品がどっさり詰まっている。感謝、感謝!

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写真9 市場のドリアン売り。パロポはドリアンの産地として有名

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写真10 おみやげにドリアン(妻が左手に持っている)と

ランブータン(ムクロジ科の赤い果実。右手の籠に入っている)を買う

 

※次回は7/27(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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市場の果物売り

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