9月10日
ボンガカラデンへの旅で知り合ったイポさん(県知事夫人の甥)を訪ねて、彼がマネージャーをしているマカレのウィスマ・ヤニというホテルへ行く。ホテルの名前は、県知事の子どもの一人ヤニの名に因んでいる。ヤニは小学6年生、はつらつとした元気のよい子だ。そこで私はエリック・クリスタルという米国カリフォルニア大学バークレー校の人類学者と会った(写真1)。マカレで調査し、” Toradja Town”の研究で1970年に博士号を取得していた。その気さくな人柄には好感が持てた。彼の奥さんが日系3世ということで、日本人には親しみを感じているようだった。今回はトラジャに撮影のために来たイギリスのBBC放送のクルーの案内役で、約3週間の滞在予定だという。マカレのパサール(市場)のワルン(食堂)で夕食をともにした。夜は、イポさんがスライドを見せてくれた。1969年に行われたサンガラの王族プアン・サンガラの葬儀だった。サンガラは県南部のカプアンガン (kapuangan)あるいはタル・レンバングナ (Tallu Lembangna) と呼ばれる地域のなかでも最も強力な王国を形成していた。「現地人」がカメラを持ち、スライド写真を作り、葬儀を記録する時代である(写真2)。あたりまえのことだが、現地の人びととの「協働」(kerja sama)なしには調査はできない。
9月11日
午前中、キラさんに会う。彼は、石川栄吉先生(東京都立大学教授)が1973年にトラジャで調査していたときリンディンガロ郡の郡長(チャマットcamat)だった人物である。温和そうな人柄で、まだ伝統宗教(アルック・ト・ドロ)の信奉者だという。石川先生のことをよく覚えていた。ウィスマ・ヤニに戻り、馬淵東一先生(東京都立大学名誉教授)からコピーさせていただいたトラジャの王族の系図をイポさんに見せるといろいろと解説してくれた。この系図の注釈を作るのは面白い仕事かもしれない。今日はサンガラ郡のパサール(市場)が開かれる日──トラジャの市場は6日に一度開かれる──というので、見学に出かける。トラジャ人の嗜好品であるシリー・ピナン(ビンロージの葉と実)がたくさん売られている(写真3)。市場には散髪屋もいる。義歯を並べて売っている歯医者(tukang gigi)までいたのにはいささか驚いた。竹製の背負い籠(baka)を1つ600ルピアで買う。サンガラからタンメントエ(ランテパオ近郊)に行き、ペンディングにしていたドゥマさんへの支払いについて相談する。彼はトラジャではカネの話をするのは「恥ずかしい」(インドネシア語でmalu、トラジャ語でsiri’)と言って話題をそらしたので(このお金に対する感覚は面白い)、話はつかず、宿舎を紹介してくれたアングィさんに話してみるということで別れた。昼下がりの田舎道を男たちが豚を担ぎ、女たちは黒衣をまとって、葬式に向かっている。
9月12日
午後、先日借りたサロン(腰巻き)を返しに県知事宅へ行く。借家の相談をしたかったのだが、県知事は風邪を引いて寝ていて、会えなかった。しかたなく、ウィスマ・ヤニで昼食を取った後、こちらも昼寝をきめこむ。夕方、再度県知事宅に出かけ、奥さんと会って、雑談。借家の件を彼女に伝える。なかなかの女丈夫だ。彼女にまかせておけば、なんとかなりそうな気がする。彼女の勧めで、明日からサンガランギ郡ブンギン村メンデテックで行われる葬式を見に行くことにした。この葬式はト・ミナア(to minaa)と呼ばれるトラジャの伝統宗教の祭司の葬式で、死者が神祭を司る役職であるがゆえに葬祭でありながら神祭のかたちをとる特別なものだという。トラジャ儀礼研究事始めである。
9月13〜20日
メンデテックの葬儀を見学に行く。県知事夫人の紹介でS. ブアさんのトンコナン(慣習家屋)に泊めてもらう。ブアさんの甥に当たるY. P. バラランギさん(小学校教員)がいろいろと教えてくれ、面倒を見てくれた。死者ネ・デナは祭司の職にあり、昨日聞いたように、この葬式は葬祭でありながら神祭のかたちをとる特別なもので、60年に一度くらいしかおこなわれず、ひょっとしたらこれが最後になるかもしれぬほど貴重なものらしい(写真4)。そのようにめずらしい葬式だということでBBCも撮影にきているわけだ。その撮影隊を案内していたのが先日会ったエリック・クリスタルだった。葬儀に他人が踏み込んでくるというのは、日本人の感覚からするといささか抵抗があるが、トラジャの人たちにはあまり抵抗感はないようだ。もっとも、めずらしい儀式を世界に紹介すると言っても現地の人の生活がある。エリックがガイドするBBCに加えて、ニョニャ・ロバーツというカナダ人の老婦人(自称社会科学者)がいて、あれこれと質問し、写真を撮っている。人類学者もそうだが、人びとの生活に踏み込むのはいささかズーズーしいことではないかと思う。研究の対象が相手の生活だということはあまり心地がよいものではない。さらに、この葬式には2人の「オラン・ギラ」(orang gila:インドネシア語で「きちがい」の意)も来ていた。1人はライ病を患っていた。こうした珍客に対しても村人は寛容である。約1週間にわたるとても複雑な儀礼だった。
9月21日
マカレの郡庁で統計資料を見た後、昼にかけて家捜し。ランテレモ(マカレ郡)とランテパオの物件を見に行く。どちらも悪くないが、どこに住むかということは人類学的調査にとって決定的に重要な問題だ。なぜなら、そこが基本的なフィールド経験の場になるわけだから。ランテパオの家は新しく、都市での生活にはふさわしいが、「ランテパオ都市研究」でもやるのでなければ、やめた方がよいような気がする。私はトラジャの「カンプン(村落)の研究」に来たわけだから、村落部に住み込むのが正論だ。ランテレモの家はシェアハウスなので共同生活になる。それも悪くはないが、私たちとは生活スタイルが異なるので同宿者との人間関係が気がかりだ。思案の末、県知事が言っていたメンケンデック郡の家──県知事の母の家。現在空き家になっているという──を見てから決めることにする。午後は、県知事夫人とサダン(セセアン郡)の葬式に行くことになっていたが、4時間も待たされたあげく、彼女は来ないという知らせ。改めて「インドネシア時間」を思う。ここでの生活にはスケジュール的な時間観念はない。夕方、エリックをランテパオのウィスマ・ローザに訪ねる。しばし雑談。彼の写真と文章が載っているPacific Discoveryという雑誌を貸してくれる。論文のタイトルは”Ceremonies of the Ancestors”*1。写真が素晴らしい。
9月22日
サンガランギ郡パオという村の葬式を見に行く。死者はネ・タンケという女性で、8月13日に亡くなったという。キリスト教徒の葬式だが、水牛や豚の供犠を伴い、見た目はきわめて「伝統的」である。メンデテックのものより規模が大きい。南スラウェシで農場をやっているという日本人が来ていた。夕方、県知事夫人に会い、メンケンデックの家を見たいと伝える。決定は明日からのサンガラの葬式が終わってからだが、村で根を下ろして生活できるようなところであればいいと思う。夜はランテパオ郡長の案内で昨日見たランテパオの家で豚の竹筒料理をごちそうになる。
9月23〜25日
サンガラの王族(プアン・サンガラの奥さん)の葬式を見に行く。ディラパイと呼ばれる王族層のみに許される大きな葬式だ。サルアロ村の村長代理の家に泊めてもらう。ここはかつて天理大学の相馬幸雄さんが調査の際泊まったところらしい。24日に家の中に安置されていた遺体をトンコナンからアラン(米倉)の下のスペースに移す儀礼(mellao alang)がおこなわれる。儀礼というものは見ていてあまり面白いものではない。また、観光客が来ていたり、ニョニャ・ロバーツのような人類学者もどきの人物に会ったりするとイヤ気がさす。一体トラジャは儀礼を売り、生活を売り、先祖を売り物にするつもりなのか。25〜26日は儀礼はいったん「休み」(allo datuna)ということで、ランテパオに戻る。2泊分の宿泊のお礼として3000ルピア渡す。
9月27〜29日
サンガラの葬式見学の続き。舞台は葬儀広場(rante)に移る。大きな広場には、巨石(simbuang batu)の列柱が並び(写真5)、遺体安置小屋(lakkian)、遺族が泊まり込むための来客接待小屋(lantang)が作られている。マバドン(ma'badong)と呼ばれる葬送のダンスが踊られ、歌が歌われ、水牛が供犠される。観光客が多く来ている。観光客もサロン(腰布)を着け、黒衣をまとい、ヤシ酒や豚を運んで葬列に加わる。葬式の主催者で近代主義者の王族プアン・ソンボリンギさん(写真6)と「未開」を求めてやってくる観光客。実に奇妙な組み合わせだ。葬儀の主催者たちは「1グループ、水牛1頭」と冗談だか本音だかわからぬことを言っていた。ツーリズムという名の資本主義が入り、ここの文化と社会が崩れつつあるのを感じる。子どもたちは外国人に会うと、「ハロー」とか、「ブランダ」(Belanda 「オランダ人」=外国人の意)とか、「トゥリス」(ツーリスト)などと呼びかけ、"Kasih gula-gula"(アメちょうだい)とか、"Kasih uang"(お金ちょうだい)などと言ってモノやカネをせびる。彼らからすれば、私ももちろん「トゥリス」だ。
※次回は5/4(火)更新予定です。
*1:Crystal, Eric. 1976. Ceremonies of the Ancestors. Pacific Discovery 29 (1): 9-18.