トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第7回 儀礼調査の日々、日本からの旅行者、調査の憂鬱 1977.1.15〜2.1

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1月15日

 ト・マンカイ (to mangkai) (註1)という儀礼があると聞き、パンロレアンへ。儀礼がおこなわれたのはト・ミナア祭司(ネ・カダッケ)の家だった。生まれた孫のためのものだが、豚を供犠して、竹筒料理を作り、共食するというパターンは他の儀礼と同じ。共食後、子どもが面白いところに案内してくれるというのでついていってみると、ヤミの闘鶏がおこなわれていた(写真1)。バリの闘鶏についてのクリフォード・ギアツの有名な論文があるが(註2)、 闘鶏はトラジャの村人にとっても「血がのぼる」(kendek rara)ようなエキサイティングな体験らしい。ミナンガでは苗代作りが始まっている。

註1 この語の意味はよくわからない。
註2 Geertz, Clifford. 1973. Deep Play: Notes on the Balinese Cockfight. In: The Interpretation of Cultures, pp. 412-453. Basic Books.

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写真1 闘鶏。血がのぼるようなエキサイティングな体験

 

1月16日

 中途半端な日曜日だった。予定ではマダンダン村に儀礼を見にいくことになっていたが、昼食をとったら昼寝のあとにしよう、昼寝から起きると明日にしようと先送りして結局今日は行かずじまい。午後遅く強い雨。友人に手紙を書く。夕食後、ガウレンバンのタイプスクリプトを写し、LIPI (Lembaga Ilumu-Ilumu Pengetahuan Indonesia インドネシア科学院)に提出する報告書の草稿を書いて就寝。

 

1月17〜18日

 マダンダン村ポトンでおこなわれているマブア(マブア・パレ)儀礼(註3)の続きを見にいく。ニョニャ・ロバーツが例によってわがままにふるまっていた。米国コーネル大学のトービー・フォルクマンという人類学者と知り合う。夫チャールズ・ザーナーは建築に興味を持っているという(写真2)。しかし彼らは体調を崩して儀礼が始まる前に帰ってしまった。ポトンではマブア儀礼は30年ぶりということで、きわめて貴重な祭りである。マカレから来たト・ミナア祭司ネ・バドゥを中心に儀礼は翌日(18日)水牛を供犠するまで続く息の長いものだった。その結果徹夜することになってしまったが、明け方のト・ミナアの祈祷はとてもすがすがしく、神々しく感じられた(写真3)。マダンダン村からの帰り、日本から来た3人組の旅行者にあった。トラジャへの観光客はヨーロッパ人(とくにフランス人)が多く、日本人は珍しい。聞いてみると、1人が太平洋戦争中にメナドにいたということでスラウェシを旅行し、トラジャまで足を延ばすことになったらしい。素朴で、とても愉快な人たちだった。

註3 第5回12月17日参照。

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写真2 トービー・フォルクマン(左から2人目)と

夫のチャールズ・ザーナー(右から2人目)

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写真3 マブア儀礼で供犠される水牛とト・ミナア祭司の祈祷

 

1月19日

 今日は休んでフィールドノートの整理でもしようと思っていたら、昨日会った3人組がひょっこりやって来た。北九州の電気屋、うどん屋、看板屋で商店街の仲間らしい。1人は私と同郷の山口県下関市出身ということだったので親しみを覚えた。一緒に近くの山に登り、井戸でマンディ(水浴び)した。「お笑い3人組」の外国旅行という感じで、看板屋は職業柄トラジャのウキラン(彫刻)に興味を持ったと語り、もう1人は、トラジャは夏休みで田舎に帰ったようなところだ、ただセミが鳴いていないなどと感想を述べる。たしかに、セミの鳴き声は聞いたことがない。トラジャにはセミは生息していないのだろうか。泊まるところを聞かれたので、マカレのロスメン・インドラを紹介した。明日は車をチャーターするというので、彼らに付き合ってトラジャを案内することにした。大学学部時代の友人小林敏君から手紙が来て、婚約したと書いてあった。

 

1月20日

 3人組がチャーターした車に同乗してあちこち案内する。ついでにマカレの郵便局に寄ってもらい、郵便物を受け取る。親からの小包と妻の友人である矢島さんからの本が届いていた。チャーターした車の運転手に荷物をミナンガに届けておいてくれるように頼む。3人組と別れたあとミナンガに戻り、ベッドに横になって休憩。さっそく送られてきた本を読み始める。唐十郎『少女と右翼』。その幻想的な小説はトラジャにいることを忘れさせる。日本の右翼はなぜ「大陸」を目指したのか。「南洋」は彼らの夢と結びつくことはなかったのか。

 

1月21日

 午前中、サンガラに行き、プアン・ソンボリンギから系図を返してもらう。その後、系図の解説を聞くためにプアン・パンタンに会う予定だったが、孫の結婚式のためウジュンパンダンに行ったというので、代わりにパサン・カナンさんに会った。カナンさんはカトリック系の中学校の教師で、サンガラの歴史に詳しい人だ。自分の家系について話してくれ、彼が作成したタイプスクリプトを貸してくれた。ミナンガに戻ると、プアンが来ていて一緒に夕食をとった。彼女はインドネシア語ができないので、私のつたないトラジャ語でなんとか意思疎通した。小包のお礼の手紙を親に書く。

 

1月22日

 休息日。午前中、妻が井戸で洗濯している間、フィールドノートを整理。昼寝のあと、カナンさんから借りたタイプスクリプトを写す。プアンは小作たちにあれこれと指示し、アラン(米倉)を開けて、稲束を取り出し、一部を村人たちに分配した (ma’suka)(註4)。夜、食事が終わったあと、プアンはネ・ピアを呼んでスーリン(suling 竹笛)を吹かせる(写真4)。見事な演奏だったのでカセットテープに録音した。スーリンの音色は尺八に似ている。夜が更けて、LIPIへ出すレポートの草稿の続きを書く。

註4 米の分配 (ma'suka)については第6回1977年1月11日参照。

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写真4 葬儀でのスーリン(竹笛)の演奏

 

1月23日

 午後遅く、プアンと一緒にマカレのインド・ナ・ライの家に行く。インド・ナ・ライはプアンの娘である。彼女はチフスでランテパオの病院に入院していたが、回復してマカレの自宅に戻っていた。思ったより元気そうだったが、近々ウジュンパンダンに行き、再度検査を受けるという。夕食をごちそうになり、泊めてもらう。夕食後、ヤシ酒を飲みながら雑談。プアンは、昨日の米の分配のとき隣家のインド・セサが来なかったのはかつてカウナン(奴隷)の「水牛飼い」だったくせに最近は金持ちになって気位が高くなり、(貧乏人のように)米をもらいにくるのが恥ずかしくなったからだろうと解釈していた。トラジャにおける「血」と「冨」と「社会的地位」の関係──トラジャ社会を考えるうえでとても重要なテーマだ。

 

1月24日

 インド・ナ・ライの家で休暇を決めこむ。午前中、近くに住んでいるプアンの妹プアン・ソンキンの家を訪れる。その夫サックンは中部スラウェシのパルで縞黒檀の会社を経営している金持ちだ。郵便局に行き、親宛の手紙を出す。市場で買い物。県役場の宗教課で必要なデータを写す。昼寝のあと、インド・ナ・ライの家族写真を撮って(写真5)、ミナンガに戻る。帰路、市場のそばを通ると人垣ができている。何だろうと思って聞いてみると、窃盗犯が捕まったのだという。ミナンガに戻ってネ・ピアに聞くと、こうした場合、犯人は手を縛られ、「私は○○を盗んだ」と言わされながら、市場中を引き回されるのだという。私は見なかったが、市場はそうした「刑の執行」の場でもあるのだ。

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写真5 インド・ナ・ライ(子どもを抱いている女性)と

その子どもたち(アッチョン=前列左とアティ=後列右)、プアン(右)。

後列左は妻

 

1月25日

 トラジャでの生活に嫌気がさしている自分に気づく。だれにも会いたくない。人類学者とは因果な商売だ。イヤでも会って話を聞かないと仕事にならない。憂鬱だ。こんなことを考えてしまうのは疲れているからだろうか。そういえば、竹田さんが来た1月9日頃からずっと忙しかった。酒でも飲みたいが、飲み友達がいない。しかたなく、ベッドにもぐり込み、横溝正史『獄門島』を読みながら寝る。

 

1月26日

 中根千枝先生から葉書が届く。仕事ばかりでなくお楽しみくださいと書いてあった。こんなところではたいした楽しみもないが、「楽しむ」ところまで行けば調査も大成功だろう。人に会って話をすると疲れるので、今日は家で本を読んだり、タイプを打ったりして過ごした。異郷での生活は気苦労が多い。こちらが見るのではなく、むしろ村人から見られている。前に書いたように(註5)、出すゴミまで見られているのだ。

註5 第6回1977年1月5日参照。

 

1月27日

 午前中、LIPIに提出する報告書の整理。昼食後、村役場のサンペがやってきてパンロレアンでマンララ・バヌア(mangrara banua=「家に(儀礼で供犠した動物の)血をつける」で、新築儀礼のこと)があると知らせてくれる。そう聞くと人類学者としては行ってみたくなる。落ち着いて休息もできない。先日訪れたアンベ・アリのお兄さんの家で、昨年新築した家のためにおこなわれた儀礼だった。トラジャの儀礼は、「東側の儀礼」(aluk rampe matallo)と「西側の儀礼」(aluk rampe matampu’)に大別される。前者は神々に対する儀礼で、ランブ・トゥカ(rambu tuka’「昇る煙」──「煙」は儀礼のメタファー)とも呼ばれ、太陽が上昇していく午前中に始められ、住居の東側でおこなわれる。後者は死者に対する儀礼で、ランブ・ソロ(rambu solo’「沈む煙」)とも呼ばれ、太陽が下降する午後に始められ、住居の西側でおこなわれる。新築儀礼は、稲作儀礼やマブアなどの豊穣儀礼とともに、「東側の儀礼」に分類されている。儀礼の主催者が豚を提供し、参加者はクーリン(料理壺)にご飯を炊き籠に背負って集まってくる(写真6)。エリック・クリスタルのいう”cooking pot politics”である(註6)。クーリンの数を数えてみると、59個あった。因みに村役場の統計ではカンプン・パンロレアンの戸数は234戸、人口は1047人である。単純計算するとパンロレアンの世帯の約4分の1が「料理壺の政治学」に参加したことになる。パンロレアンにはもう何度か来ているので、村人とも顔なじみになっている。集まってくる村人を見ていると、儀礼が変わっても集まってくる人はあまり変わらないことに気づく。儀礼とはある意味口実で、機会があるたびにこんな風に寄り合って親密な関係を築いていくのである。

註6 Crystal, Eric. 1974. Cooking Pot Politics: A Toraja Village Study. Indonesia 18: 119-151.

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写真6 儀礼ではクーリン(料理壺)にご飯を炊いて持ち寄る。

エリック・クリスタルのいう「料理壺の政治学」の実践

 

1月28日

 昨日の儀礼の続きで朝からパンロレアンへ。マンララ・バヌア(新築儀礼)にも社会階層に応じて4ランクあり、昨日から見学している儀礼は第2ランクのものだという。この儀礼では計6頭の豚が供犠された。竹筒料理が作られ、供物を神々に捧げたあと(写真7)、「神様はもうお食べになった」などと言って供えた肉やご飯を儀礼の参加者が共食するのは日本の神事と同じ。最後にバナナの葉で包んでもらっておみやげとして持ち帰る。儀礼とは食いごとである(写真8)。その意味ではトラジャの儀礼は──神祭であれ、葬儀であれ──「祭宴」(ペスタpesta=feast)なのだ。

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写真7 マンララ・バヌア(新築儀礼)で豚を供犠し、供物を神々に捧げる

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写真8 儀礼で米を搗く女たち

 

1月29日

 LIPI提出の報告書のタイプ打ち。計6枚になった。夜12時過ぎまで起きてレポートを書いたのはインドネシアに来てからはじめてである。明日は日曜日──休日だ。

 

1月30日

 トラジャの村落生活について民族誌的に述べよと問われたらどのように解答できるだろうか。トラジャの村人の1日について、村人が持っている夢について、家の周りの植物について、私はどれだけのことを知っているだろうか。西洋の民族誌というジャンルはどこか「ロビンソン・クルーソー」の系譜に連なっているような気がする。非日常的な「冒険」と「未開な島での生活」のお話。しかし、私は冒険者ではないし、トラジャは海に囲まれた島でもない。なにより彼らは「未開人」ではない。私たちと同時代人なのである。このような状況でどのような民族誌を書くことができるのか。三島由紀夫の『仮面の告白』を読み終える。

 

1月31日

 メバリの市場の日。6日おきに開かれるトラジャのパサール(市場)のシステムについて、メバリ市場のあるシラナン村の村長に話を聞く。興味深いのは、市場から市場へ渡り歩いて、衣類、乾電池、干し魚などを売っている商人たちだ。散髪屋も巡回している(写真9)。この人たちのことをもっと知りたいと思う。午後、ネ・ルケの田んぼで田起こしがおこなわれる。5〜6人の男たちが鍬入れする。プアンの水田の田起こしのときとは働き手が異なっている。こうした労働交換のシステムは研究の余地がある。市場で買い物してきたネ・ルケが作業している男たちをコーヒーと菓子(餅米を黒砂糖で炊いたもの)、果物(ナンカ=ジャックフルーツ)でもてなす。夜、ルケがメバリの市場で買ってもらったというイヤリングを見せに来る。

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写真9 市場を巡回する散髪屋。メバリの市場で

 

2月1日

 ケペに葬式を見にいく。「3晩の祭宴」(dipatallung bongi’)というタイプの葬儀である。今日は3日目で、「葬送」(miaa)の日だった。遺体はティノリンにあるリアン(壁龕墓)に納められた(写真10)。故人はメバリに行って交通事故にあい、亡くなったということで、突然息子を失った母親と兄を失った弟はショックで気がふれたという噂だった。長期にわたる貴族層の盛大な死者祭宴よりこうした貧しく小さな葬儀に死の悲しみがストレートに表明されるように思える。夜、フレーザーの『金枝篇』を読み進める。

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写真10 リアンを開ける

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写真11 リアンの内部。自然洞窟を利用している

 

※次回は7/13(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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米を搗く女たち

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