トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第16回 収穫の季節、稲の成育儀礼 1977.6.30〜7.16

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6月30日

 ゲーテガンにあるハジの田んぼの稲刈り(mepare)を見に行く。田植えが2月中旬だったから約4ヶ月で刈り入れということになる。稲が実ることをトラジャ語ではmatasakという。インドネシア語のmasak=「料理する」と同根の言葉だ。実ること=熟すること=料理すること。レヴィ=ストロース流に言えば、「生のもの」=「自然」から「料理したもの」=「文化」への移行である。稲刈りは穂摘み用ナイフ (トラジャ語でrangkapan、インドネシア語でani-ani)を用いて穂のみを刈り取る(写真1、2)。村人は稲刈りを手伝って、報酬を得る。10束刈って1束 (搗くと約1リットル分の米になる)が相場だ。これをマカンカン(ma’kangkan)という(写真3)。1日で60〜100束刈ることができるので、1日働いて6〜10束の稼ぎとなる。田を持たない者にとっては米を得る重要な手段だ。大きな田んぼだと100〜200人の稲刈り人(ト・マカンカン)が必要となる。今日はメバリ市場の日で、ネ・スレーマンが行くというので、ダンケ(水牛乳で作ったチーズ)を買ってきてもらう。おみやげだと言って卵を3個くれた。夕方、戯れに、ルケ、ネ・スレーマン、インド・ネゴ、インド・ロモなどの頭形を測定してみた。「長頭」(註1)が多い。

註1 頭幅(左右幅)を頭長(前後幅)で割って100を掛けた値が74.9以下のものを長頭、75.0~79.9を中頭、80.0以上を短頭と分類する。

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写真1 稲刈り

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写真2 摘み用ナイフで穂のみを刈り取る

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写真3 マカンカン。稲刈りを手伝って報酬を得る

 

7月1日

 今日から7月だが、寒く憂鬱な日だった。午前中は、昨日同様、ハジの田んぼの稲刈りを見に行く。今日が最終日だという。約100人のト・マカンカンが一列に並んで刈り取っていく。ミナンガの村人たちもほとんどが参加していた。収穫後の田には水牛を入れて、地面を踏ませる(写真4)。蹄耕と呼ばれる耕作法だ。夕方、ルケと近所の子を相手にトランプをする。彼らにとっては初めての経験で、7並べとばば抜きを教える。

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写真4 収穫後の田に水牛を入れ、地面を踏ませる

 

7月2日

 昨日と同じような天気。寒く、曇った空。大通りで1時間近くミニバスを待って、マカレに行く。郵便局で馬淵東一先生への手紙を出す。京大東南アジア研究センタージャカルタ事務所の前田(立本)成文さんからの手紙を受け取る。市場で少し買い物をして、ミナンガに戻り、マンディ(水浴び)、そして昼寝。夕方、激しい雨。稲刈りをすると雨が降るらしい。

 

7月3日

 昨夜8時すぎにウジュンパンダンの津田さん夫妻と吉川さんがトラジャに着いて、マカレのウィスマ・ヤニに泊まっているとのことで会いに行く。吉川さんが「豚の丸焼き」を食べたいと言って、マカレの市場で子豚を7500ルピアで調達。昼間はトラジャ観光をして、ランテパオのトアルコ事務所に寄った後、マクラ温泉に行く。宿の主人に「豚の丸焼き」を作ってもらう。ニンニクやパラ(ナツメッグ)などの香辛料を使って、とても上手に料理してくれた。

 

7月4日

 ウジュンパンダンへの帰路、津田さんたちがミナンガのわが家に寄ってくれる。吉川さんは、トラジャは何と言っても気候がよいのが一番だと言う。熱帯でも標高1000メートルを越える高地のためトラジャの朝は18度くらい。昼間も25度くらいで、ウジュンパンダンのような蒸し暑さはない。彼らがトラジャを去って、プアンがマカレからミナンガに戻って来た。彼女の田んぼの稲刈りを指揮するためである。昼寝の後、ジャカルタのニョニャ・スワソノからの手紙を受け取る。インドネシア大学の授業料がまだ届いていない、在学延長手続きのためにジャカルタに来るように、とある。授業料は2月に送ったはずだが、今頃になって連絡してくるとは!イブ・アニーに出した手紙についても触れていないので、もう一度確認する必要がありそうだ。

 

7月5日

 久しぶりに晴れる。2月に送金した授業料の行方を確かめるためにランテパオのBRI(Bank Rakyat Indonesia)に行く。調べてもらうと、2月4日にBRIランテパオ支店からBRIジャカルタ支店に、2月10日にBRIジャカルタ支店からBNI (Bank Negara Indonesia) 46ラワマグン支店のインドネシア大学文学部に振り込まれていた。さっそくニョニャ・スワソノに手紙を出す。他方、文部省アジア諸国派遣留学生の奨学金(4〜6月分)が届いていないことが判明。明日にでも送金通知書を持参してチェックしてもらう必要がある。ランテレモ地域では稲刈りの真最中。収穫がすんだところではもう2期作のための田起こしをやっている。サンガランギ郡からランテパオにかけては苗代を作っているところもある。ハジの田んぼの稲刈りは早かったが、メンケンデック地域の稲刈りは一般に8月になるようだ。こうした稲作サイクルの違いは気候のせいというより、稲の品種の違いによるのだろうか。「緑の革命」では早生の品種が導入されたが、在来種は収穫まで時間がかかる。ミナンガではまた狂犬騒ぎで、番犬のネキがひもで結わえられた。トラジャの犬は一般に放し飼いなので、結わえられたネキは殺されると思ったのかぶるぶると震えていた。

 

7月6日

 午前中、ランテパオのBRI。文部省が5月に送った奨学金がまだ届いていない件、文部省から振り込まれたお金を受け取ったジャカルタのBAPIND0 (Bank Pembangunan Indonesia)は5月14日付けでBRIランテパオに送っていたのだが、BRIランテパオではBAPIND0の小切手は扱っていないので5月29日にジャカルタのBRIに送り返していたらしい。こちらに届くように手続きをしてもらい、今日のところは引きあげる。昨日は晴れたが、今日は午後から曇天、寒い天気に戻った。村人によれば、稲刈り前のこの季節は「寒い季節」らしい。村役場では子どもたちが種痘を受けていた。

 

7月7日

 朝、ハジの田んぼの労働状況の記録を見せてもらおうと思って村役場に出向いたが、記録を管理しているサンペが稲の分配が終わってからにした方がよいと言うので、家に戻りデスクワークの1日となった。今朝、狂犬を1匹殺したそうだ。また、インド・ロモの孫が亡くなり、明日葬式だという。プアンの番小屋にいる猫、1匹(三毛)はインド・パレ(稲の母)、もう1匹(トラ)はインド・ロロ(ロロの母)という名前だという。猫にもテクノニミー(註2)が適用されているのが面白い。名前からすると2匹とも雌猫である。

註2 テクノニミーとは、固有名を持つのは子どもだけで、子どもXを持てば、「Xの父」あるいは「Xの母」、孫Yを持てば「Yの祖父母」と呼ばれるような命名法のこと。トラジャの命名法はこれが基本である。

 

7月8日

 『民族学研究』に寄稿する報告論文にとりかかるが、どのように調査データを使えばよいのかうまくいかない。論文を書くのはやはり難しい。午後からケペのインド・ロモの孫の葬式に出かける。死因は”cacar”(疱瘡)ということだったが、もし天然痘だったら怖い。裏手にある、伝統宗教(アルック・タ)の信者とキリスト教徒の共同墓地に埋められた。ポン・リタの兄、ケンデックと話す。彼は日本統治時代、ケペのカンプン長だったらしい。であれば、アンベ・ソ・リンブ、ケンデック、ポン・リタに連なる一族がケペの支配層だということになる。そのポン・リタはマカレのパク病院に入院中である。

 

7月9日

 朝、マカレの市場へ。今日は野菜をたくさん買った。野菜はずいぶん種類がある。ナス、タマネギ、トマト、ジャガイモ、サヤエンドウ、キュウリ、ネギ、ショウガ、ニンニク、青菜、キャベツ、カティムン(ハヤトウリ)など。日本統治時代に野菜の作り方を教えた成果か。また、イカン・ボル(ボラの1種)という魚を買う(写真5)。魚はパロポから運ばれてくるという。午後、昼寝。夕方、村役場に行き、サンペからハジの水田の稲刈りの記録を見せてもらう。ハジはピンランでの結婚式に出席するため孫のイワンを連れて出かけていた。奥さんは病気で行かなかったようだ。プアンによると、「心の病気」(masaki penaa)らしい。これでプアンが何を言いたいのかはよくわからない。

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写真5 市場の魚売り。売っているのはイカン・ボル

 

7月10日

 午前中デスクワーク。午後、ティノリンの葬式を見に行く(写真6)。キリスト教徒の葬式でトラジャ語の賛美歌が歌われ、牧師代理がトラジャ語で聖書を朗読し、説教する。キリスト教徒の魂 (bombo)は天国(surga)にいくとされるが、「天国」は伝統宗教の死者の国であるプヤ(puya)とどう違うのかと参列者に聞くと、同じだとの答え。イエス・キリストのトラジャ語訳はPuang Jesusで、王族を指す「プアン」という言葉が使われている。この地のキリスト教とは何なのか。サンガランギ郡ケテ・ケスのトンコナンの支柱には水牛の角の代わりにキリスト像が飾られている(写真7)。葬式を見学した後、カンプン・バラ──カンプン・ランダナンの東に隣接し、ランダナンと1つの儀礼共同体を構成している──で稲作儀礼(ma’bulung pare)をやっているというので、カンプン長のA. シアンさんに話を聞きに行く。稲が無事実るように願う儀礼である。ミナンガでは、夕方、アンベ・ナ・アティ(インド・ナ・ライの夫、プアンの娘婿)がチェンケ(クローブ)を植えるための下見に来ていた。チェンケは最近換金作物として流行っている。ネ・スレーマンはインド・ロモとケンカして頭が痛いということで、夜番に来ず。代わりにネ・コピが来た。

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写真6 キリスト教徒の葬式での説教

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写真7 トンコナンの支柱に付けられたキリスト像(サンガランギ郡ケテ・ケス)

 

7月11日

 朝、バラに稲の成育儀礼マブルン・パレ(ma’bulung pare)を見に行く。すでに5日前から始まっていて、今日は村の始祖に供物を捧げる(ma’pakande to piara tondok)儀礼がおこなわれるということで見学に出かけたが、午後4時開始というのでいったんミナンガに戻り、3時半過ぎに出直す。しかし、着いたときには儀礼はほとんど終わっていた。雨が降りそうだったから予定より早く始めたとカンプン長は釈明したが、トラジャの儀礼は予定通りにはいかないのが通例。文句を言っても仕方がない。儀礼終了後、カンプン長の誘いでヤシ酒をごちそうになる。トンコナン・ラタンのト・パレンゲであるネ・トゥアラがこの儀礼についていろいろ話してくれた。この儀礼ではバラ=ランダナン儀礼共同体内のいくつかの場所で祖先と神々に対して供物が捧げられるという。村内の人間関係を観察していると、トマカカ(平民層)とプアン(王族層)の対立を感じる。また、「カウナン」(奴隷)という言葉はタブーであり、階層意識は人びとの頭のなかでピリピリしているようである。日が暮れて、ミニバスがなくなり、ミナンガまで7〜8キロの道程を1時間半ばかりかけて歩いて帰った。

 

7月12日

 バラのマブルン・パレ儀礼の続きを見に行く。今日は神々に供物を捧げる日で、プアン・ガウレンバンの家から少し登ったところにあるレンパンガンというところでおこなわれた。ここはランダナンの首長のトンコナン、トンコナン・オティンに繋がるプアン・パエトンが最初に家を建てたところだそうで、プアン・ガウレンバンが豚を供犠し、供物を捧げた。神々への供物台はマダンダンのマブア儀礼の時に使われたものと同じようなものだった(写真8)。頼まれていた写真を渡し、3時頃ミナンガに戻る。プアンはマカレに戻っていた。インド・トゥパの田んぼで稲刈りがおこなわれ、ルケもマカンカンに出かけた。しかし、バラ=ランダナン地区ではまだ稲刈りは始まっておらず、稲の成育儀礼をやっている。同じ村のなかでも稲作のサイクルは異なっている。そのため村全体に関わるような稲作儀礼はおこなうことができないというわけだ。

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写真8 神々に供物を捧げる

 

7月13日

 夕方、再びバラへ。村の始祖たち(to piara tondok)に対する儀礼の続きで、今日はバランガンというところでトンコナン・ラタン(平民層)の始祖に供物を捧げる儀礼がおこなわれた。これは祖先に対する儀礼なので、マンターダ(祖先祭)のスタイルである。バラに行く前、村役場の前でミニバスを待っていると、村長ハジが手紙を2通持って来てくれた(私の手紙の宛先は村長気付けになっている)。1通はバリからトービーとチャールズのもの、もう1通は文部省からのものだった。文部省からの手紙には奨学金延長申請のためにはインドネシア大学の指導教官であるクンチョロニングラト教授のサポートレターが必要とあった。夜、さっそくクンチョロニングラト先生に手紙を書く。

 

7月14日

 イスラムの祝日で休日だが、伝統宗教に基づいたバラのマブルン・パレ儀礼は続いている。今日はウル・カロというところでネ・トゥアラがトンコナン・ラタンのト・パレンゲとして神々に供物を捧げた。帰路、バトゥ・ロンドン、パダン、パンロレアンの山沿いの石道を約3時間かけて歩いてミナンガに帰る。途中、バトゥ・ロンドンでは水路の補修工事をしていた。バラの採砂場では女たちが砂を背負い籠に入れて運んでいた。バトゥ・ロンドン、パダン、パンロレアンでは稲がほぼ実っている。他方、タンティ、バラ、ランダナン、ケペといった谷間になっている部分の田んぼの実りが遅いのは在来種を植えているからだろうか。

 

7月15日

 バラのマブルン・パレ儀礼の続き。今日はマラアというところで神々に供物を捧げる儀礼がおこなわれた。マラアとは田の中に大きな岩が埋まっているような場所で、向かいの山の岩を小鳥が蹴飛ばして岩が田んぼまで飛んできたという伝承があるらしい。到着したときはネ・トゥアラによる神々への祝詞が始まっていた。その後で供犠した豚を竹筒料理にし、クーリン(料理壺)で運ばれてきたご飯で共食となる。儀礼の期間中これの繰り返しだ。今日はマカレの市場の日で、妻がマカレへ出かけたのでついでに郵便局からクンチョロニングラト先生への手紙を出してもらう。

 

7月16日

 飽きもせずバラのマブルン・パレの見学に出かける。今日の儀礼はトンコナン・ブントゥ・バラが主催。毎回同じような儀礼をやっているのだが、トンコナン・ラタンを中心とするトマカカ(平民)層とトンコナン・オティンとトンコナン・ブントゥ・バラを中心とするプアン(王族)層で共同体が2分されているという印象を受ける。祝詞を録音して、夜ネ・スレーマンに聞いてもらうと、内容は豚と鶏の起源に関する話だとのこと。日常会話はなんとか分かるようになったが、こうした伝承のトラジャ語になると全くお手上げである。トラジャ語は難しく、なかなか上達しない。

 

※次回は11/16(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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水牛の水浴び

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