トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第17回 休む暇がない、民博展示用の米倉、ビザの更新 1977.7.17〜8.1

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7月17日

 午前中、昨夜から読み出した森村誠一『真昼の誘拐』読了。今日は休息日にしようと思っていたのだが、ネ・スレーマンに誘われて、昼食後、バラナ──カンプン・タンティの「隣組」(R.T.)の1つ──でおこなわれた葬式に出かける。テドン・トゥンガ(Tedong Tungga’)と呼ばれる2頭の水牛を供犠するタイプの葬式で、すでに葬送儀礼(miaa)は終わっていた。今日はマロロ(malolo)と呼ばれる儀礼がおこなわれ、これによって服喪者(to maro’)は米食のタブーから解放される。同じカンプン・タンティのなかでもバラナはタンティとは別の儀礼共同体(註1)を構成していることを確認する。プアン(トンコナン・ブントゥ・タンティ)への豚肉の分け前をもらって帰る。肉の分け前にあずかるのは、以前は気持ち悪く、ありがた迷惑に感じることもあったが、最近は貴重な動物性タンパク源としてありがたく受け取るようになった。さっそく妻が豚のショウガ焼きを作る。明日はパダンで葬式があるとか。儀礼研究者としては休む暇がない。『水滸伝』2巻目を読み始める。中国の古典だがとても面白い。

註1 儀礼共同体とは儀礼を執行する単位でpenanianとかbua’と呼ばれるものである。儀礼共同体内の各トンコナンには儀礼執行上の役割が付与されている。

 

7月18日

 昨日同様、ネ・スレーマンと連れだって、パダンの葬式に行く。10日ほど前にメバリ付近で交通事故に遭って亡くなった女性の葬式だった。キリスト教徒(カトリック)の葬式である。伝統宗教の葬式が共同体的・社会学的であるのに対し、キリスト教徒の葬式は個人主義的・心理学的だという印象を受ける。牧師の言葉は、死者に対し個人心理学で迫る。「母はどこに行った?永遠の眠りの地へ、我々が知らぬ他の世界に行ったのだ。そしてかの地で母は生きる。だから悲しんではならない。・・・」。こうした「心」への訴えかけは伝統宗教にはない。死者は心の中ではなく、社会の慣習の中で葬られる。妻がメバリ市場で財布をなくしたが、警察に行くと幸い財布が届けられていた。

 

7月19日

 久しぶりに何もしない休息日。本を読んだり、報告書を書いたり、音楽(ビートルズとモーツアルトのテープ)を聴いたりして過ごす。ネ・スレーマンは昨日の葬式でもらった水牛の肉を隣村マリンディンに住んでいる息子のところに届けに行ったようだ。生まれたばかりの孫がいるらしい。

 

7月20日

 バラのマブルン・パレ儀礼の最終日。農耕を司る役職であるブンガララン役のトンコナン・ブントゥ・ジョンガンのト・パレンゲ、アンベ・キデさんを先頭にカンプンの境界を1周する(写真1)。マカレ郡との境界の山に登り、バトゥ・ロンドン、パンロレアン、ティノリン、テガンとの境界を歩く。4カ所で止まって、米飯、豚肉の供え物をし(写真2)、「ありがとうございます」(Kurre sumanga’, pole paraa) などと唱えながら、稲の成長を願ってタバン(リュウゼツラン)の葉(写真3)で田んぼに聖水を注ぐ(写真4)。ト・パレンゲたちは聖布(maa)を身につけ、蛮刀(la’bo’)を腰に結わえて、「稲よ、早く育ってくれ。我々は空腹なのだ」というような意味の歌を歌う。4〜5時間かけて村落を1周し、出発点のトンコナン・ブントゥ・ジョンガンに戻る。女たちが用意した米飯、豚肉の竹筒料理を食べ、ヤシ酒を飲み、脚の黒い鶏を供犠して(写真5)終了。私も疲れ果てて、ミナンガに戻る。

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写真1 稲の成育儀礼(マブルン・パレ)で、村の境界を巡り歩く一団。出発前の整列

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写真2 供物を捧げる

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写真3 タバン(リュウゼツラン)。清めの儀礼に使われる

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写真4 タバン(リュウゼツラン)の葉で清める

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写真5 鶏の供犠

 

7月21日

 マカレ市場の日。夕方、村長経由で親、大学院の同級の冨尾賢太郎君、米国のエリック・クリスタル、昨年知り合ったオーストラリア人ピーターなどから7通の手紙が一度に届く。親からの手紙には長期不在にしている東京のアパートの明け渡し要求が来ているとあった。どう対処するか。

 

7月22日

 昨日の親からの手紙への返事をマカレの郵便局から投函。続いてランテパオのBRI (Bank Rakyat Indonesia )へ行き、奨学金の入金を確かめる。前回と今回のものが入金されていて、残額80万ルピア。ちょっと豊かな気持ちになって、フランス人の写真家によるトラジャの写真集 (8000ルピア)とL. パカンのトラジャの彫りものについての本(1100ルピア)などを買う。トアルコの事務所を訪ねたが、清野さんたちはパダマランの農園に行っていて不在。トービーとチャールズも彼らの調査村トンドック・リタックに戻ったらしい。ということでだれにも会えず、ミナンガに戻る。夕方、隣のインド・セサの水牛のお産を見に行く。昨年10月に参加したランダのネ・レバンの死者祭宴の2次葬(註2)は9月になるとの連絡。

註2 トラジャの大きな死者祭宴は2度に分けておこなわれる。ネ・レバンの死者祭宴の場合1次葬は1976年10月におこなわれた(第3回1976年10月25〜29日参照)。

 

7月23日

 午前中、ピーターとエリックに手紙を書く。午後、昼寝のためトンコナンに上がって、寝転がって昨日買った写真集を眺めていると、何となく気が滅入ってきた。というのも、この写真集のフランス人写真家の視線に「文明人」が「未開人」を見る眼を感じたのだ。それは私のトラジャに対する見方と相通じるところがあり、自己嫌悪を感じたのである。トラジャ研究を通して私は世の中に何を示そうとするのか。これは簡単には答えられない問いである。何もかも忘れて、どこかに旅に出たいという気持ちに駆られる。

 

7月24日

 午前中、昨日途中で終わっていたエリックへの手紙を完成させる。午後、『民族学研究』用のトラジャ調査報告を書き直す。マンディ(水浴び)。レーモン・クノー『地下鉄のザジ』を読了。

 

7月25日

 朝、マカレの郵便局からピーターとエリックに手紙を出す。市場で食料品を若干買う。午後、昼寝。月末の1週間は外回りはやめて、書くことに集中したい。集中的にやらないとなかなかはかどらない。月末までに『民族学研究』用の報告論文とLIPIへの報告書をまとめること。

 

7月26日

 1日中『民族学研究』用の報告論文──「トラジャ・フィールド・ノオト」というタイトルを付けてみた──の原稿書き。400字詰めにして30〜40枚くらい書いただろうか。夕方、小学校教師で私のトラジャ語の先生でもあるフランツがトアルコの相馬さんから託された日本の週刊誌を持ってきてくれる。『水滸伝』は第4巻目に入った。面白くて、わくわくする。古典の力はすごい。

 

7月27日

 朝、マカレ市場。午後、家で「トラジャ・フィールド・ノオト」の原稿書きをしていると、突然、国立民族学博物館の吉田集而さんが訪ねて来た。民博の展示用にトラジャの米倉(alang)を買い付けに来たと言う(写真6)。吉田さんはそのままミナンガのわが家に泊まり、マカレで買ってきたばかりのホワイトホースを2人で空けて、明け方4時頃まで話す。吉田さんは「学問はオモロなきゃあかん」と言う。「オモロイ」とは何か。私にとってトラジャ研究が「オモロイ」のかどうかよくわからない。

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写真6 プアン・ミナンガの米倉

 

7月28日

 朝、睡眠不足の眼をこすりながら、吉田さんと米倉捜しに出かける。民博の展示場の天井の高さが6メートルということで、その基準で捜すと適当な米倉がない。古い米倉だと6メートル以下のものはないことはないが、米倉は通常高さ7メートルあり、新しいものはますます高くなってきている。1日中あちこち見て回ったが適当なものがなかったので、ランテパオの大工さんに新しく作ってもらうことになった。私はその製作過程をフォローアップするという役目を仰せつかった。吉田さんは、今日はマカレのロスメン・インドラに泊まった。

 

7月29日

 吉田さんのジープに乗せてもらってウジュンパンダンに出る。いつものように津田さんのところに泊めてもらおうと思ったが、佐久間さんの結婚式の関係者で一杯だったためホテルに泊まる。夜、イスタナ映画館の近くで、チョト・マカッサル(マカッサル風牛肉煮込み)とナシ・ブンクス(ちまきのご飯)を食べる。夕方、市内(ベンテン)でおこなわれていた博物館学の講習会をのぞいてみる。天理大学の相馬幸雄さんが昨日の朝トラジャに向かったらしい。入れ違いになったようだ。

 

7月30日

 朝、吉田さんを宿泊先のホテルに訪ねる。今日の午後にでもトラジャに戻ろうと思っていたが、吉田さんがビザの延長は早めにしておいた方がよいとアドバイスしてくれたので入管局に行く。この前会ったバリ人の係官に尋ねると、延長できるが明後日の月曜日になるとのこと。というわけで、明後日ビザの延長手続きを済ませたあとトラジャに帰ることにした。インド料理屋に寄り、いつものようにマルタバック(インド風お好み焼き)の昼食。食後、再度吉田さんの泊まっているホテルに行くと、南山大学の倉田勇先生が数人の学生たちを連れてきていた。日本は夏休みで調査実習の季節というわけだ。夕方、アジア・バルというレストランで一緒に焼き魚を食べる。ラシッドさんから復刊したBigkisanを購入する(写真7)。

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写真7 南スラウェシ文化研究誌Bingkisan

 

7月31日

 暇ができたので、吉田さんを誘って、カヤンガン島に泳ぎに行く(写真8)。午後は昼寝──インドネシアではいつでもどこでも昼寝は必須である。夕方起きて、海岸沿いを散歩し、海に沈む夕日を見る。ウジュンパンダンの夕日は世界3大夕日の1つらしい。とくに乾期の夕日は、大きく、美しい。トラジャ人でトラジャ文化研究者のプアン・タンディランギ(註3)を訪れるが、不在。奥さんと奥さんのお姉さんと雑談する。嫁・姑のトラブルはトラジャでもあるらしい。そのことがトラジャの妻方居住(結婚後、妻の実家に住む)の一因になっていると言う。タンディランギさんも妻方居住である。倉田先生たちは明朝バスでトラジャへ向かうそうだ。佐久間さんは今日、結婚式。

註3 第9回2月26日参照。

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写真8 カヤンガン島にて。吉田集而さんと(撮影者不明)

 

8月1日

 朝、入管局。バリ人の担当官の好意的な取り計らいで来年3月末までビザが延長できた。これでビザ問題は片付いた。津田さんに挨拶に行くが、釣りに出かけていて不在だった。吉田さんには電話で挨拶し、ミニバスでパレパレ──ウジュンパンダンから北へ約150キロにあるブギスの港町。トラジャへの経由点──に向かう(写真9、10)。パレパレではタンディランギさんの奥さんに紹介してもらった宿舎に泊まる。モスク近くの魚料理屋でイカのフライと焼き魚を食べる。美味。帰路、コーヒー屋に寄る。そこにいたおじさんと(奥さんがトラジャ出身だということで)話が弾んだ。インドネシアではコーヒー屋が面白い。

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写真9 パレパレ付近のブギスの家

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写真10 パレパレ近くの海岸に仕掛けられた定置網

 

※この調査日記にもしばしば登場し、1976/78年のトラジャ調査でもっとも親しくしていたネ・ルケが先日(11月13日)亡くなったという知らせを受けました。心からご冥福をお祈りします。

 

※次回は11/30(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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ブギスの家

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