トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第3回 メンケンデック郡ティノリン村ミナンガ 1976.10.5〜11.7

10月5日

 トラジャ入りしてちょうど1ヶ月たった10月2日にランテパオの教会付属のウィスマからメンケンデック郡ティノリン村カンプン・タンティにあるミナンガに移った(写真1)。県知事の母であるプアン・ミナンガ(写真2)──プアン・トゥア、あるいはたんにプアンと呼ばれる──の家がある村である。田んぼの向こうにブントゥ・ティノリンが見える(写真3)。村名はこの山の名に由来する。こうして、私は住み込み調査地としてランテパオを中心とした県北部地域ではなく、マカレを中心とした県南部を選んだわけだ。エリック・クリスタルが論じているように(註1)、県北部と県南部は社会体制が異なり、政治的にも文化的にも状況がかなり異なっている。そうしたなかで、トラジャ到着後接したランテパオのトラジャ教会の関係者とは反りが合わず、県南部出身の県知事一家のさっぱりとした性格に惹かれた。ミナンガに着いた日、ティノリン村の村長ハジ・アンディロロ(写真4)──県知事の叔父でプアン・ミナンガの異母弟。以下たんにハジと呼ぶ──が、「何をしに来たのだね。ここには何もないよ」と言ったが、その言葉はランテパオの教会関係者が自慢げに「ここにはたくさんの文化がある」と聞かされていた私の耳にはとても新鮮に聞こえた。家はマカレに通じる大通りに面した大きな水田のあぜ道を通って少し小高くなったところにあった(写真5)。その敷地には美しく彫刻されたトンコナン(tongkonan 慣習家屋 写真6、7)と2つのアラン(alang 米倉)、さらに煉瓦造りの家が建っていた。このトンコナン──ブントゥ・タンティという名を持つ──は、かつてブントゥ・タンティ(ブントゥ・ティノリンの隣の山)の上にあったものを移して、1968年に建て直されたという。県知事の三男ジミーの結婚式がおこなわれたときに使われた以外は使われておらず、空き家になっていた。煉瓦造りの家には台所(dapo’)と2つの部屋、トイレがあり、1部屋は、(普段はマカレの娘のところに住んでいる) プアンが村に来たときに使うという。私たちはトンコナンと煉瓦造りの家の台所と1室を使え、しかも家賃は不要。こうして私たちはこの村の王族のトンコナンの最初の住人となったのである。ルケという10歳くらいの少女とその妹ポーリー(写真8)、彼女らの祖母ネ・ルケ(写真9)、その夫ネ・ピア(写真10)──この3人はプアンの使用人/世話人である──が私たちの最も近い隣人である。ここでやっとトラジャでの生活を始めることができるような気がする。調査というが、生活の厚さの方がフィールド経験としては大切だと思う。あせらず、ゆっくり、じっくりやろう。

註1 Crystal, Eric. 1974. Cooking Pot Politics: A Toraja Village Study. Indonesia 18: 119-151.

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写真1 メンケンデック郡ティノリン村ミナンガの景観

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写真2 家主プアン・ミナンガ。県知事J. K. アンディロロの母

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写真3 ブントゥ・ティノリン。石灰岩質の岩山である。村名はこの山に由来する

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写真4 ティノリン村の村長ハジ・アンディロロ。

県知事の叔父でプアン・ミナンガの異母弟

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写真5 ミナンガのわが家。中央左手にトンコナンの屋根が見える

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写真6 トンコナン(慣習家屋 中央)とアラン(米倉 右手に2棟)。

トンコナンは1968年に建て直された

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写真7 トンコナンには美しい彫刻が施されている

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写真8 ルケ(左)とポーリー(右)。異父姉妹

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写真9 米を搗くルケ(左)とネ・ルケ(右)

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写真10 ネ・ピア。手に持っているのは掘り棒。左は木製、右は鉄製

 

10月6日

 午前中、村長ハジの住居兼事務所に行き、ティノリン村の地図、統計などを写す。「ハジ」と呼ばれるのは、彼がイスラム教徒で、メッカ巡礼をすませているからだ。イスラム教徒はトラジャでは少数派だが、彼の妻はピンラン出身のブギス人でムスリム。結婚したときにイスラム教に改宗し、1966年に夫婦でメッカに行ったという。家の近くにはモスクがある(写真11)。今日はマカレのパサール(市場)の日だというので、午後マカレに行く(写真12)。マカレまでは12キロ、道路に出てミニバスに乗れば15分程度の距離である。ミニバスは約10人乗りで、日中だけだが結構頻繁に走っている(写真13)。市場には村人が背負い籠に野菜を入れて売りに来ている。商品は値引き交渉 (tawar) をしながら購入する。肉を買おうとしたが売っておらず、近くの店で豚肉の缶詰を買う(肉は原則として儀礼の際に分配される)。電気、ガス、水道はないが、水は近くの井戸からルケに毎日汲んできてもらい(写真14)、コンポル(灯油コンロ)を使って妻が市場で買ってきた食材でいろいろと工夫しながら調理する。明かりはケロシン(灯油)ガスランプだが、これが意外と明るい。100ワットはある。

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写真11 ミナンガのモスク。

トラジャではイスラム教徒は少数派だが、村長はムスリムだった

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写真12 マカレの市場。村人が野菜などを背負い籠に入れて売りに来る

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写真13 トラジャ内をつなぐミニバス。日中だけだが結構頻繁に走っている

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写真14 井戸から竹筒で水を汲んで運ぶルケ

 

10月15日

 ミナンガに住み始めて、約2週間。電気、ガス、水道のない生活にも慣れ、トラジャの村で生活を始めたと実感する。原則、午前中を調査の時間に、午後から夜はプライベートな時間に当てることにした。一昨日はKKN(Kuliah Kerja Nyata 実習プログラム)という制度で村落支援ボランティアに来たUNHAS(Universitas Hasanuddin ハサヌディン大学)の学生と知り合いになった。これは今日の開発政策のなかで、エリートである大学生に村の生活の実際を知ってもらおうという教育プログラムである。今年はトラジャではメンケンデック郡とセセアン郡で実施されているというので、昨日は県北部のセセアン郡パンリの郡庁を訪れた。南部のメンケンデック郡と北部のセセアン郡を比較すると面白いかもしれない。今日は村内のカンプン・ランダナンのプアン・ガウレンバン(写真15)を訪れ、県南部のタル・レンバングナ(Tallu Lembangna)──マカレ、サンガラ、メンケンデックの三王国──に関する伝承について尋ねた。彼はメンケンデック王国の首長のトンコナンであるトンコナン・オティンに住んでいる。トラジャの伝承について100頁近いタイプスクリプトをしたためており、近いうちに本を出したいという。現地人が自らの社会や文化について書く時代である。人類学者の役割とは何か。

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写真15 プアン・ガウレンバン。トラジャの伝承文化に関する私のグル(師)

 

10月17日

 昨日より風邪ぎみで、家でごろごろして過ごす。今日は日曜日で、雨も降らず、気温もほどよくいい日だった。久しぶりにラジオをつけてみると、NHKの国際放送が入った。日本ではいまだロッキード事件のことが話題になっている。夕方、イポさんに頼んでおいた写真が届く。ルケを交えて、興奮気味に写真を見る。フィールドワーク──写真と文章が残る。

 

10月25日

 約1週間前、ジャカルタから吉村さんがひょっこり訪ねてきた。吉村さんは朝日新聞の記者で、研修のためジャカルタに赴任、インドネシア大学で一緒にインドネシア語を学んだり、研究会をしたりしていた。この1週間、私たちも「トゥリス」(ツーリスト)として一緒にトラジャを見て回った。これまでトラジャ観光をしてなかったのでちょうどよい機会だった。吉村さんの突然の訪問はとても懐かしかったが、同時に私たちの田舎生活がかき乱されもした。今朝早く、彼はトラジャを去り、私たちは元の生活に戻った。水汲みをめぐる問題でネ・ルケと一悶着あった。生活に必要な水は、毎日井戸からルケに竹筒に入れて運んできてもらい、お駄賃に1日50ルピアを支払っていたが、ネ・ルケも何か手伝うことで小遣いを稼ぎたいというのである。この要求を私たちは受け入れなかったが、トラジャの山奥までカネが入り込んできているという事実を強く認識させられた。村人もまたカネを必要としている時代なのである。

 

10月26〜29日

 葬儀の観察のため、マカレから10キロほど離れたサンガランギ郡マダンダン村ランダに泊まり込む。トラジャの大きな葬儀は家での儀礼を中心とした一次葬(アルック・ピア)と広場で行われる壮大な二次葬(ディパラオ)に分けておこなわれるが、今回は一次葬である。ランダではわが家主プアン・ミナンガと一緒だった。死者ネ・レバンは彼女の親戚に当たり、私たちは死者の実家に泊めてもらった。いわば儀礼を内側から見たことになる。戸外で儀礼のさまざまな作業するのは男たちで、女たちは家の中でだべったり、炊事をしたりしている。死者は裕福な貴族層に属し、伝統宗教に基づいた葬儀ということだった。水牛が供犠されると、子どもたちが殺害された水牛の喉元から血を竹筒に受ける(写真16)。かなりショッキングなシーンだ。食事は問題なかったが、水不足でマンディ(水浴び)ができず、難儀した。はた迷惑なニョニャ・ロバーツがいたのは例によってだが(ネ・レバンの友人だったという)、気の良いオーストラリア人の旅行者ピーター・ヒルと知り合いになった(写真17)。さんざん疲れてミナンガに戻る。

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写真16 供犠された水牛の喉元から子どもたちが血を竹筒に受ける

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写真17 ピーター・ヒル。オースーラリアからの旅行者

 

11月6日

 4日前になるが、ピーターがパンガラ地域(リンディンガロ郡)でメロックという儀礼があるから見に行こうと誘いに来たので、ランテパオから18キロの山道を歩いて見学に行く。村人に村まで後どのくらいかと尋ねると、答えるたびにかかる時間が長くなる。近づけば近づくほど遠くなるのだ。考えてみれば、時計を持ったことのない村人に時間を聞いても無駄なわけだ。目的地のレンポ村に着いたのは夕方5時過ぎだった。民家に案内されて、薄暗いダポ(台所)で、ススで黒くなったご飯と豚の脂身、食べたことのない野菜をごちそうになった後、儀礼を見学した(写真18)。夜は、村人でいっぱいの祭宴小屋で寝たが、彼らの臭いが鼻についてよく眠れなかった。世界のどん詰まりのような村──ここに来てしまったら最後、逃げられないといった感じの圧迫感があった。翌日はラリカンという村で別の儀礼があるというので、早朝レンポを発つ。村に近づくと山道はほぼ垂直に近くなり、私の脚力と心臓ではよじ登るのに1時間近くかかった。村に着くやいなや村落(カンプン)長の家で部屋を借りて寝込む。それでも豚を供犠すると聞くと急いで写真を撮りに行くあたりは人類学徒としてのプロ意識か。このラリカンの村落長は石川栄吉先生が3年前に調査した際のインフォーマントで、先生のサイン入りの手紙を見せてくれた。1泊して、徒歩でランテパオに戻る。村人の足では3時間ほどの山道だが、私には地獄の苦しみだった。「現地人になれ」と人類学の教科書は教えるが、私は決して彼らのようにはなれない。

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写真18 メロック儀礼。男たちの歌 (ma’nimbong)

 

11月7日

 ミナンガで迎えた誕生日。昨日の疲れで朝から体調が優れなかったが、マカレまで降りて市場で若干の買い物をした。村人を呼んで誕生日会をしようとも思ったが取りやめて、ビートルズのカセットテープを聞きながら、妻と二人だけで28歳の誕生日を祝った。

 

※次回は5/18(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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村の景観

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