トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第15回 ネ・ピアの死、紛失したカメラ出てくる、ミナンガの村落研究続行 1977.6.14〜6.29

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6月14日

 朝、トアルコの相馬さんの車に乗せてもらって、ウジュンパンダンを発つ。あいにくの雨。いつものように平地から山地に向かう風景の推移を観察しながらトラジャに帰る。ミナンガに戻ってみると、信じがたい悲報が待っていた。ネ・ピアが亡くなったのだ。4月に狂犬に噛まれ、呪医 (to ma’dampi)による治療を受けて傷は癒えていたのだが、2日前に狂犬病を発病し、亡くなったという。取り急ぎネ・ピアの家に行くと、私を見てネ・ルケが泣き崩れた。昨日しつらえたという柩の飾り付けがおこなわれていた。ネ・ピアは死ぬ前に神父を呼んでくれと頼み、キリスト教(プロテスタント)に入信したそうだ。母親がキリスト教徒だったらしい。死後「母の国」に行きたいと思ったのかもしれない。プアンによると、亡くなる2 、3日前にネ・ピアは気がふれたようになって、「俺の目は狂犬の目だ」などと口走ったり、ズボンもつけず握手を求めたりして、プアンを怖がらせたらしい。夜、小学校教師のフランツが神父代理としてやってきて、ミナンガのプロテスタント系キリスト教徒の会衆が集まり、祈りを捧げた。カトリックのインド・セサや土着宗教信奉者のネ・コピやネ・スレーマンは来なかった。ネ・ピアはキリスト教徒になったが、まだクリスチャンネームがないので私に名前をつけてくれぬかという。突然「マタイ受難曲」が思い浮かんだので、「マティウス」などはどうかと答えた。柩にM. Sesa (M.はマティウスのイニシャル、Sesaはネ・ピアの幼名)の名がしるされた(写真1)。

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写真1 ネ・ピアの死。亡くなる前にキリスト教に入信した

 

6月15日

 朝、マカレの警察署に行き、トラジャに戻ってきたことを報告する。インド・ナ・ライにプアンからの手紙とウジュンパンダンのおみやげを届ける。ネ・ピアが亡くなった日、彼女もミナンガに来たらしい。彼女が葬儀用の水牛の提供を申し出ると、ネ・ルケは自分が田んぼを質入れしてでも都合するからと申し出を断ったという。「プアンのカウナン」の地位を脱却して、自立したいという意思の表明だったのかもしれない。私たちもマカレの市場でネ・ピアの葬儀のために小さな豚を1頭購入した(13,000ルピア)。夕方、マンディ(水浴び)の後、ネ・ピアの家に行くと、インド・セサの夫が来ていてネ・ピアが死んだときの状況などを話してくれた。このあたりにはもう1匹狂犬がいるらしい。

 

6月16日

 朝、トアルコの相馬さんと清野さんがやって来る。彼らがミナンガのわが家に来たのは初めて。時間がなかったのでコーヒーだけ飲んでもらって、一緒に杉山さんの奥さんの一行が泊まっているマカレの宿舎(ロスメン・インドラ)に行く。ネ・ピアが亡くなったのでママサ(西スラウェシ州)には行けなくなったと伝える。彼らと別れた後、イポさんに会って、トラジャでおこなわれた観光セミナーの報告書のコピーを受け取る。郡別のものはL. T. タンディリンティンさんが持っているとのことだった。行方不明になっていたカメラについての情報があったので、写真屋タンケ・タシックを訪ねる。カメラを売りたいという人が現れたとのこと。そのカメラが私のものかどうかわからないが、念のために警察にも届けた。ミナンガに戻り、昼寝。ネ・ルケとネ・ピアの代わりにインド・ネゴとネ・スレーマンがプアンの世話人として来ている。

 

6月17日

 朝、ケペのアンベ・ソ・ロトの親族の家を訪れる。私がウジュンパンダンに行っているあいだに行われた葬式の話などを聞く。明日、死霊に供物を捧げる儀礼(parundun bombo)が持たれ、20日から闘鶏がおこなわれる予定だとのこと。メインの儀礼が終わった後も小さな儀礼やイベントが延々と続く。夕方、ネ・ピアの家を訪ねる。ネ・ルケは寡婦(to balu)の義務としてネ・ピアの柩のそばで寝ていたが、すでに死臭が漂っていた。インド・セサなど近隣関係者、ネ・ピアの(前妻とのあいだの)3人の子どもが来ていた。ラマシ(パロポの北方33キロ)に住んでいる父親と兄弟たちは今日到着するとのことだったが、結局来なかった。あと2日待っても来なければ、葬式を挙行するという。夕方より雨。インド・セサによると、ランテパオ地域で稲刈りがあると、ミナンガでは雨が降るという。

 

6月18日

 朝、フィールドノートの整理。午前中、インド・ナ・ライの夫、マンゴンタンさんが来る。彼らが提供しようとした水牛をネ・ルケはいったん拒んだが、あてにしていたインド・セサが水牛の提供を拒んだため(担保となる水田が良くないというのが理由らしい)、もう一度彼らに水牛を頼めないかと打診していたようだ。トラジャの葬儀の水牛供犠の背景にはこうしたマイクロポリティクスが渦巻いているのである。午後、アンベ・ソ・ロトの死霊に供物を捧げる儀礼を見に行く。ブントゥ・ティノリンの麓にあるリアン(壁龕墓)で供物を捧げる(写真2)。リアンの近くにはいくつかのエロン(船型木棺)が見えた。帰り道、ケペで闘鶏がおこなわれる場所を確認する。まだ開始される前だがすでに幾組かの闘鶏がおこなわれているようだった。アンベ・ソ・ロトの家に寄り若干聞き込みをする。寡婦のネ・ライがサゴでんぷんのスープを飲んでいた。喪が明けるまで、米食はタブーなのだ。ネ・ピアの父親や兄弟たちも今日到着したらしい。明後日葬儀執行となる。水牛は結局ネ・ピアの親族が提供することになったようだ。

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写真2 死者の霊に供物を捧げる。女性がかぶっているのは服喪を示すポテ(頭被り)

 

6月19日

 朝、ネ・ピアの家へ。ネ・ピアの親族から私たちが提供した豚について質問があった。トラジャの慣習では、こうした豚は相手の葬式のときに返済しなければならない借りになるのだが、私たちが日本に帰ると返すことができないというのだ。そこで、この豚は故人への「感謝の気持ち」であり、返済の必要はないと説明し、理解を求めた。ネ・ルケが水牛のことを話していたが、トラジャ語だったのでよくわからなかった。昼前、ケペのアンベ・ソ・ロトの葬儀でma’poli’儀礼(註1)があるというので出かけたが、まだ始まっていなかった。それで闘鶏を見に行った。本当は明日からなのだが、実質的には始まっていた。8,000〜30,000ルピアくらいが賭けられていた。ミナンガでは、インド・ナ・ライが来てネ・ピアの葬儀のために豚を1頭供犠。村長ハジの田んぼでは、稲刈りが始まる。

註1 この儀礼の意味はよくわからない。

 

6月20日

 ネ・ピアの葬儀の日。朝、私たちが提供した豚をネ・ピアの家に運ぶ(写真3)。この葬儀では昨日のインド・ナ・ライの豚1頭を含め計4頭の豚が供犠された。豚1頭の供犠につき、税金は1,200ルピア。トラジャでは儀礼がおこなわれればおこなわれるほど税収が増えることになる。私たちが提供した豚は返済の必要がないことを記した証文を求められたので、書いてネ・ピアの家族に渡す。トラジャもなかなかの文書社会だ。ネ・カラックが中心になって豚を解体し、竹筒料理を作る。親族や近隣の村人がクーリンに入れた米飯を持ってくる。昼過ぎ、メバリのトラジャ教会所属の牧師がきて、祈りを捧げ、その後、共食。遺体は裏山のキリスト教墓地の母親のそばに埋められた。夕方、井戸でマンディ。連日の葬式通いで、とても疲れた。

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写真3 ネ・ピアの葬儀のために私たちが提供した豚を運ぶ。後ろに立っているのは妻

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写真4 ネ・ピアの葬儀。
ウンバティン(儀礼的涕泣)をおこなっているのは寡婦となったネ・ルケ

 

6月21日

 朝、キャラバンシューズのやぶれを修理。昼前、大学学部時代の同級生田村俊作君に手紙を書く。その後、マカレへ。タンケ・タシック(写真屋)に寄ってみると、カメラはすでに警察に保管されているとのこと。警察署は閉まっていたので、明日確かめに行くことにする。昨日までのネ・ピアの葬儀その他のことで疲れがたまっている。ミナンガでは、ネ・スレーマンがプアンの「番人」になったようだ。

 

6月22日

 マカレの警察暑へ。紛失したと思っていたカメラが保管されていた。詳しい経緯は不明だが、中学生が拾って届けてくれたという説明だった。タンケ・タシックの店主にお礼としてチョコレートを1箱、拾ってくれた中学生には2,000ルピアほどお礼することにする。強運のカメラだと思って大切にしたい。帰りにケペの闘鶏を覗いてみる。大勢の人びと(数百人くらい)が集まっている(写真5)。パロポやカロシ(エンレカン県)からもやって来るらしい。刃を足につけ、舞い上がる鶏。熱中し、興奮する人びと。ギアツのバリの闘鶏に関する論文を思い出す(註2)。「賭けの経済学」──賭け金は場内で1万〜13万ルピア。場外では500ルピアくらいからという。ミナンガに戻ると、妻が古着を村人に分けた後だった。ネ・ピアの葬儀のときの豚肉がまだ残っていたので、夕食に食べる。

註2 Geertz, Clifford. 1973. Deep Play: Notes on the Balinese Cockfight. In: The Interpretation of Cultures, pp. 412-453. Basic Books.

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写真5 闘鶏。「賭の経済学」 

 

6月23日

 マカレに行き、カメラを拾ってくれた中学生に2,000ルピアをお礼に渡す。友達と一緒に来たが、性格の良さそうな子だった。郵便局に父からの手紙が届いていた。弟が結婚したとのこと。久留米で式を挙げたらしい。返事を書く。

 

6月24日

 朝、妻はマカレへ。郵便局から父と吉川さん宛の手紙を出してもらう。私はフィールドノートを整理し、論文を読む。ママサに行かないことになったので、当分ミナンガの村落研究に集中することにする。午後、再度闘鶏を見に行く。鶏も種類によっていろいろあり、その違いが少しずつ分かるようになった。男性が多いが、女性もかなり来ている。郡長も来ていた。彼も闘鶏が好きなようだ。横溝正史『幽霊座』、三島由紀夫『獅子・孔雀』に続いて、五木寛之『風に吹かれて』を読了。

 

6月25日

 午前中、インド・トゥパの息子が、マンターダ儀礼(註3)をやるから見に来ないかと誘いに来る。午後、インド・セサ、ネ・スレーマンと連れだって出かける。インド・セサの母方の祖母がインド・トゥパのイトコだということで、料理壺に米飯を炊いて持参する(註4)。インド・トゥパは親の代で富者(to sugi)になったらしい。村内の高額納税者の1人である。ちなみに、村内の納税番付のトップはプアン、続いて村長ハジ・アンディロロ、3位にプアン・ガウレンバンとプアン・メンケンデック由来の王族。インド・トゥパも夫がかつてマカレ地域で勢力を誇った王族プアン・タロンコの息子だったということで、婚姻により王族に繋がっている。王族層はやはり経済的にも優位であることが多いようだ。インド・セサによると、裕福になるためには、まず田を作る、ついで豚や水牛を育て、さらに田を手に入れることが重要とのこと。この冨と地位の関連がトラジャ社会を考えるうえで重要だ。

註3 県南部で広く行われている祖先への感謝儀礼。
註4 第7回1977年1月27日参照。

 

6月26日

 日曜日。ミナンガの谷間を風がさらさらと流れていく。竹林の竹の葉がさわさわと音をたててとても気持ちがよい。こんな日は遠出したくなるが、足がない。ただ、風の音を聞いている。歌の文句ではないが、「そこにはただ風が吹いているだけ」。午後、ベッドに寝転がって遠藤周作『闇のよぶ声』を読んで過ごす。夕方、近所のソ・ネゴらと体力テストに興じる。

 

6月27日

 月曜日。休みを取ると元気が出て、あれもせねば、これもせねばと思う。今日はバラナ──カンプン・タンティの隣組(R.T.)の1つ──方面に出かけ、トンコナン・タントンドックのト・パレンゲであるネ・ロトンに会いにいく。ちょうどアンベ・ロモの家が新築中で、バラナの住民は皆そちらに手伝いに出かけており(写真6)、ネ・ロトンもそこにいた。家の新築の際、手伝いにきた人には食事が提供され、報酬は支払われない。いわゆるゴトン・ロヨン(gotong royong 相互扶助)だ。年寄りたちの話では、バラナはタンティとは別の「儀礼共同体」(penanian)のようだ。ト・バラのトンコナン・タントンドックとト・インドのトンコナン・カロンダンを中心に1つの儀礼的共同体を形成している。帰り道、トンコナン・サニックも新築中だと気づく。村役場に寄り、ティノリン村の1975年度のIPEDA=農地にかかる税金の納税状況を写させてもらう。住民1人1人の納税額が記録されている。納税番付のトップはライ・アンディつまりプアンで年額37,340ルピア、2位がハジ・シッティ村長夫人で20,520ルピア。この2人がこの村の土地持ちのトップツーということになる。

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写真6 家を建てる

 

6月28日

 午前中、ネ・ランマンに会いにいく。彼は鍛冶屋(pande bassi)である。家から少し離れたところに作業場があり、マレー式ふいごが置かれている。2本の太い竹筒に羽のついた棒で空気を送り出すタイプのふいごだ(写真7)。鍛冶の技術はブギス人から学んだという。蛮刀(la’bo‘)を作っていた(写真8)。午後はケペへ。アンベ・ソ・ロトのマロロ(malolo)儀礼(註5)はいつおこなわれるのかを聞きにいったのだが、今日がその日だった。豚が4頭供犠される。夕方まで見学して、豚肉の分け前をもらって帰る。ネ・スレーマンにおみやげだと言って渡すととても喜んでくれた。2日間ばっちり働いたので明日は休みにしたい。

註5 服喪者が米食の禁から解放される儀礼。何段階かに分けておこなわれる

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写真7 村の鍛冶屋ネ・ランマン。マレー式ふいご

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写真8 蛮刀を作る

 

6月29日

 村の鍛冶屋でマレー式のふいごを見たことなどについて馬淵東一先生に手紙を書く。午後、写真の整理。妻に散髪してもらう。ルケに6月分の水汲み料1,500ルピア。ネ・スレーマンにネ・ピアの代わりの夜番の代金として500ルピア支払う。

 

※次回は11/2(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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トラジャの男1

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