トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第23回 バラのマブギ儀礼、インド・サッカの葬儀、ポドン(羽蟻)捕り 1977.11.2〜11.25

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11月2日

 朝、フィールドノートの整理。午後からバラ(ランダナンに隣接するカンプン 註1)に出かける。マブギ儀礼が昨日から始まっているという噂だったが、実際にはまだ始まっていなかった。カンプン長によれば、広場でおこなわれる儀礼(la’pa’)の日取り (11月14日)だけが決まっているとのことだった。前田(立本)成文さん(京大東南アジア研究センター・ジャカルタ事務所)とオーストラリアのピーターに手紙を書く。明日はシラナンで葬式がある。死者は隣家のインド・セサの夫アンベ・ドゥパの叔父に当たる人物とのこと。

註1 バラとランダナンは行政的には別々のカンプンであるが、バラ=ランダナンとして1つの儀礼共同体(penanian)を構成している。マブギ儀礼はこの儀礼共同体をベースにおこなわれる。第21回に述べたパンロレアンのマブギ儀礼がパンロレアン=パダン儀礼共同体でおこなわれたのと同様である。

 

11月3日

 朝、プアンがミナンガに戻ってくる。プアン・ブントゥ・ダトゥ(プアン・ガウレンバンの叔母)と一緒だった。昼近く、シラナンの葬式を見に行く。メバリ市場から2〜3km入ったところで、シラナン山のふもとの集落だ。死者はト・パレンゲ(トンコナンの代表者)だったが、キリスト教徒になって伝統主義者たちからひんしゅくを買ったらしい。祭宴小屋にはアンベ・ドゥパがいて、ミナンガの住人の姿も見えた。米倉の下のオープンスペースで郡長らと話していると、フランス人観光客の一行がやって来た。あまり観光客が来ないメンケンデック地域でははじめてのケースだという。トラジャの葬式はもともと「見せる」ものだから、儀礼主催者の側にはあまり抵抗感はないようだったが、金髪碧眼の白人──トラジャの人びとの表現では「白い目」(mata busa)の人──がトラジャの儀礼場にいるとやはり異様な感じがする。県知事夫妻もマカレからToyota(ランドクルーザー)で駆けつけてくる。死者は県知事夫人の親戚である。ミナンガに戻ったのは夕方。久しぶりにプアンと夕食を共にする。

 

11月4日

 休日。金関寿夫『アメリカ・インディアンの詩』を読み終わる。英文学者の「未開文化」へのスタンスはロマンティシズム、センティメンタリズムだ。もっとも、未開の詩と現代の詩を共時的なコンテクストにおいて考えるという点は賛成。この本に刺激されて、マバドンのテクストを読み始める。できれば、メンケンデック地域のマバドン・テクストを採集しておきたい。若干風邪気味。夕方、インド・セサより水牛肉のおすそ分け。シラナンの葬式は今日が「供犠」(mantunu)の日だった。

 

11月5日

 体調優れず。朝、LIPI(インドネシア科学院)への報告書のタイプ打ち。昼近く、インド・ナ・ライが来る。米倉を開けて、600束の稲を取り出し、チェンケの世話をしているソ・サットゥとネ・スレーマンに分け与える。大江健三郎『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』を読む。読ませる文章だが、少し観念的だ。酒を飲んだら、頭がふらついた。体調が悪い証拠だ。

 

11月6日

 少し早めに昼食をとって、ランダナンに出かける。ガウレンバンのところでタイプ打ち作業。そのあと、バラのマブギ儀礼の初日で、マパパスケ(ma’papasuke)=竹筒を切り取る儀礼を見る。タランと呼ばれる竹を切ってきて、マア(聖布)を張った米倉の東北隅の柱に「ブギの竹筒」を結わえ付ける。竹筒には聖水(woi sakke)、ヤシ酒、水に浸した米などが入っており、タバン(リュウゼツラン)の葉が差し込まれている(写真1)、米倉のそばでマブギ・ダンスがおこなわれる。儀礼観察の傍ら、ネ・トゥアラから星の話を聞く。風邪がぬけないので、ネ・スレーマンが調合したせきに効くという薬を飲んでみる。

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写真1 米倉の東北隅の柱に結わえ付けられた「ブギの竹筒」

 

11月7日

 朝、LIPI用報告書のタイプ打ち。アルック・パレ(稲作儀礼)に関するデータの整理。昼食にお好み焼きを作って食べる。夕方から夜にかけて写真の整理。犬のネキの去勢のことをルケと話していたら、トラジャにも割礼(ditille)があるという。男の子が子どものときにおこなうらしい。夕方、雷が鳴り、激しい雨が降る。この雨期を告げる雷鳴は、ネ・スレーマンによると、マディカ(Ma’dika)という星(オリオン座の内側の3つ星を囲む外側の4つ星)と関係があるらしい。夕食にカンクン(空心菜)と缶詰のベーコン・ハム。それにホワイトホース(ウィスキー)を少し入れた紅茶をすすった。私の29歳の誕生日だった。

 

11月8日

 朝、LIPI用報告書のタイプ打ちの続き。ネ・トゥアラが予定より早くやって来て、昼食をはさんで星の話などを聞く。太陽、月、星の動きは、農耕民にとっては雨との関係が問題になる。ネ・トゥアラによると、今日の月齢は27日、吉日で、あと10日くらいすると、マヌック (南十字星)が中天を抜けて、「朝の年」(taun melambi)が終わり、「夕の年」(taun karaeng)、つまり稲作開始の年に入るという。星見が「年見」(pentiro taunan)と呼ばれるのはそのせいだ。

 

11月9日

 朝、LIPI用報告書のタイプ打ちの続き。今回はトラジャの農業を中心に報告するつもりでいたが、長くなりすぎたので、短く書き直す。午後は、村内を散歩した後、ケペに行き、インド・サッカの葬儀の予定など聞く。続いて、バラのマブギ儀礼を見に行く。今日はマリンバと呼ばれる村の周囲を巡る儀礼がおこなわれた。パンロレアンでは見逃してしまった儀礼だ。午後3時頃、先導役のネ・サッケが右手にタバンの葉を、左手にひょうたんの器(kandean lau)を持って先頭に立ち(写真2)、ブギの歌を歌いながら、共同体の周囲を反時計回りに巡っていく。ところどころで立ち止まってマア(聖布)を振る(写真3)。このようにして村内の「汚れ」を追い払うのだという。インド・ブギ(「ブギの母」)役のネ・タンディのステップはト・カロンドナンがトランス状態に入るときのステップと同じだった。今回のマブギ儀礼は村人の集まりが悪く、ガウレンバンが、最終日には県知事も来る、観光客も来る、ちゃんとやらぬと恥ずかしい(masiri’)などと説教した。

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写真2 聖水の入ったひょうたんの器を持ってマリンバ儀礼の先頭に立つ「ブギの父」

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写真3 村の周囲を巡り、聖布(マア)を振って「汚れ」を追い払う

 

11月10日

 午前中、「年見」について整理。ネ・スレーマンの語る「ブル・パラ」の民話(南十字星の起源)を録音する。フィールドノートの整理。妻にタイプを打ってもらい、LIPI用報告書完成。猫のカンカンがカエルを捕まえたが、ネ・スレーマンが、このカエルには毒があり、食べると死ぬと言って、カンカンをカエルから引き離した。

 

11月11日

 1日中、デスクワーク。フィールドノートのインデックス作り。マンディ(水浴び)。暑く、雨がなかなか降らない。ペブンカンガンの井戸も水量が減ってきた。夕方、ハジのところに灯油を買いに行く。夜、ウジュンパンダンからのラジオ放送で農業をめぐる討論を聴く。

 

11月12日

 午前中、マカレへ。郵便局に寄って、LIPIへの報告書を投函する。3ヶ月に1度、これで4回目の報告だ。前田さんからの手紙を受け取る。この前、在ジャカルタ日本大使のトラジャ行きが取りやめになったのは、直前になって夫人が体調を崩したためだと書かれていた。市場のワルンでイカン・ボル(ボラの一種)の揚げものと鶏スープの昼食。食後、ランダナンのガウレンバンのところでトラジャの口頭伝承のタイプ打ちの作業。そのあと、バラのマブギ儀礼を見る。今日はメンディオ(みそぎ)儀礼がおこなわれた(写真4)。村はずれの(水がほとんど涸れてしまった)川で、アンベ・ブギ(「ブギ・の父」)役のネ・バンテンがとても感動的な声とポーズで神々に祈祷を捧げた。昨夜は3時近くまで星を見たりして寝不足だったので、とても疲れた。

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写真4 メンディオ(みそぎ)儀礼

 

11月13日

 朝、一昨日ハジが言っていたガンダ・ラウにマンディに行こうとしたら、ペブンカンガンの方がまだましだというので、ペブンカンガンに行く。雨期を知らせるという数日前の雷鳴も音だけで、まだ乾期が続いている。午後からランダナンへ。ガウレンバンの口碑伝承のタイプスクリプトを写す作業は終りに近づいてきた。あと20頁くらい。バラのトンコナン・ブントゥからマブギの歌声が聞こえてくる。それを背後に、K5キロリマ(マカレより5キロ地点)まで歩き、ミニバスを拾ってミナンガに戻る。

 

11月14日

 ケペのインド・サッカの葬儀が始まる。今日はマカルドゥサン(ma’karudusan)=「息を引き取る」儀礼。早朝に豚が1頭供犠され、娘の家に安置されていた遺体が葬儀のおこなわれるトンコナンに移される。遺体は南枕(死者の頭位)で住居の居間に置かれる。竹製の副葬用人形(tau-tau lampa)が作られ、枕もとに立てられる(写真5)。インド・サッカは平民層の出身なので(王族にのみ許される)木製のタウタウを作ることはできない。水牛が供犠され、解体と肉の分配。ガウレンバンをはじめ村の指導者たちが米倉の下のオープンスペースに集まっている。この葬儀は今回のトラジャ調査の最後の重要な観察事例になるだろうからしっかり調査しなければ、と心に刻む。帰り際に村人が追いかけてきて、水牛肉の分け前をくれる。プアンの分け前分と合わせて持ち帰る。私も一人前の村人になった気がした。一部を隣家のインド・セサにおすそ分けする。トービーとチャールズからの手紙を受け取る。ランテパオから配達に11日もかかっている。アンベ・ロモの家の棟上げ。ネ・スレーマンによると、今日は月曜日で、ランテパオ市場の日、月は上弦4日目で、吉日(allo mellona)だとのこと。

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写真5 インド・サッカの葬儀の竹製の副葬用人形

 

11月15日

 朝、トービーとチャールズへ返事。長い昼寝のあと、フィールドノートを整理。送金のことで東京銀行ジャカルタ支店に手紙を書く。仕事があまり進まず、イライラする。ケペのインド・サッカの葬儀は今日と明日は「休日」(allo datuna)。

 

11月16日

 昼前、マカレへ。東銀ジャカルタ支店への手紙を投函。大学院の友人冨尾賢太郎君からの手紙受け取る。10月中旬よりレヴィ=ストロースが来日しているそうだ。出発前に冨尾君らと訳した『親族の基本構造』(番町書房)は来年1月頃に出るらしい。11時頃、バラへ。予定より2日遅れのマブギ儀礼の最終日(la’pa’)で、今日は広場でおこなわれた。午後1時すぎ、稲刈り後の乾田がブギ広場(パブギラン)に当てられ、儀礼を挙行。基本的にはパンロレアンのものと同じだが、かなり簡略になっている。夕方、マカレから県知事夫妻も駆けつけて来る。プアン・ブロ、プアン・シマ、ガウレンバン、県知事などメンケンデック地域の王族たちが儀礼を見守る。だが、参加者の多くはキリスト教徒である。キリスト教徒にとってマブギとは「芸能」(kesenian)あるいは「文化」(kebudayan) なのだと県知事がコメントする。宗教(信仰)と芸能(文化)の分離。夜、ネ・スレーマンから手や腕を使った長さの測り方を教わる。中指先から手のひらの底辺までがサン・レゴ(sang lego)。両腕を拡げた幅はサン・ダパ(sang da’pa)という。セルバンテスの『ドン・キホーテ』を読み始める。

 

11月17日

 朝、ペブンカンガンでマンディ。昼、プアンが田の補修作業に来た村人に稲を支給する。午後、ケペのインド・サッカの葬儀を見に行く。今日はメバルン(mebalun) =「遺体を包む」儀礼。サンガラから来たト・マカヨ(葬式祭司)が作業に当たる。また、レンボンから金細工師 (pande bulaan)が呼ばれ、金箔の文様を貼り付ける(写真6)。ケペはマバドンが有名だということで(写真7)、テープに録音する。ミナンガに戻ってネ・スレーマンに聞いてもらうと、「いいね」(melo)との感想。

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写真6 遺体を布で包む。金細工師が金箔の文様を貼りつける

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写真7 ケペのマバドン

 

11月18日

 休息日。これまでタイプしたガウレンバンの口碑伝承のテクストを読む。田の補修作業に来た村人がついでにトイレの破損箇所を修理してくれる。アンベ・パイビンが腹痛によいと言って、プアンの畑になっていたひょうたんの実をもぎとって生のままかじったのにはびっくり。妻がマカレに出かけたので、昼食に水牛肉のスープでラーメンを作る。意外とうまかった。久しぶりにマンディをして昼寝。夕方、プアンの田んぼの耕作者(to pariu)の1人であるネ・コピがひょっこり現れる。しばらくラマシ(ルウ県)に行っていて、4日前に戻ってきたらしい。ラマシでは政府が山の払い下げをやっているという。山に田を開墾する。トラジャ人には向いている仕事かもしれない。村役場のサンペの結婚式が27日頃ピンラン(マカレの南方116kmにあるブギスの町)でおこなわれるとのこと。

 

11月19日

 昼食後、ケペのインド・サッカの葬儀を見に行く。ネ・スレーマンも行くというので、一緒に出かける。今日はマトンビ(ma’tombi)=「旗を立てる」儀礼がおこなわれる。家の前ではベロ・テドン (belo tedong)が作られ(写真8)、家のなかでは遺体を飾り付ける作業が進行していた。しばらくしてマバドンがおこなわれ、葬儀広場(ランテ)へ移動。ランテにはすでにトンビ(旗)が立てられていた (写真9)。旗はケペの首長が死んだときはティノリンが立て、ティノリンの首長が死んだときはケペが立てるという。ティノリンとケペは2つのカンプンに分かれているが、1つの儀礼共同体を構成しているのだ。ランテには巨石列柱が並び、水牛が繋がれている(写真10)。巨石の1つは日本時代におこなわれたポン・リタ(インド・サッカの姻族で王族層に属するケペのカンプン長)の母の葬儀の際に立てられたという。トンコナン・ブントゥ・ケペの所有とのこと。バラ・カヤン(肉の分配のための櫓 写真11〜13)の傍らではすでに3頭の水牛が供犠されていた。供犠した水牛の肉の分配はトラジャの葬儀の中心的なテーマである(写真14)。参加者はそれが正しくおこなわれているか注意深く見守る(写真15)。県知事(死者と親戚関係がある)も弔問に訪れる。(わがミナンガの)プアンも米倉の下のオープンスペースに陣取っていた。夕方、ネ・ルケ、インド・カラックらミナンガの連中と一緒に引きあげる。猫のカンカンが待ちくたびれて、台所の窓の網から手を出して迎えてくれた。

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写真8 ベロ・テドン(水牛をかたどった飾り)

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写真9 マトンビ(旗を立てる)

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写真10 巨石柱につながれた水牛

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写真11 バラ・カヤンでの肉の仕分け

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写真12 バラ・カヤンから肉片を投げ、分配する

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写真13 肉片を受ける子どもたち

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写真14 肉の分配。トラジャの葬儀の中心的なテーマ

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写真15 米倉の下のオープンスペースで儀礼を見守る村落の指導者

 

11月20日

 ケペのインド・サッカの葬儀の続き。今日はマントゥヌ(mantunu)=「供犠」の日。1日中葬儀広場に張り付いて観察する。見ていると、トラジャの儀礼はなんともしまりがない。しかしその時が来るとさっとやってしまうあたりは見事である。弔問客のリストを写させてもらう。夕方、雨。雨宿りに入ったのが、マカレから来たプアン・カパラの祭宴小屋の部屋だった。プアン・パンタン(プアン・カパラの父)もいて、久し振りに再会。豚の竹筒料理をご馳走になり、食べ残した豚肉をカンカンに持って帰る。ミナンガに戻ったのは9時過ぎだった。

 

11月21日

 今日はインド・サッカの葬儀の最終日で、miaa=「葬送」 の日である。朝4時に起きて、ケペに向かう。メトゥア(metua)あるいはマパランド(ma’palando)というたいまつを持って死者の家の周りをまわるという儀礼を見るためだったが、着いたときにはすでに終了していた。5時開始ということだったが、3時か4時頃おこなわれたようだ。トラジャでは物事は予定通りには進まないのだ。夜明けのマバドン。7時頃から水牛の供犠が始まり、今日は8頭が供犠された。昼近く、ティノリン山のリアン(壁龕墓)に遺体が納められる。リアンは1940年頃、ポン・リタの母の時代に掘られたという(写真16)。兄のアンベ・ロモの葬儀のときは、遺体はぺランギアンというリアンに納められたが、今回は死者の子どもの姻族のリアンに納められることになった。キョウダイでも必ずしも同じ墓(リアン)に入るわけではない。祭宴小屋の一室で昼食をご馳走になって、午後3時過ぎ、ミナンガに戻った。今日はまたイスラム教のルバラン(断食明け)で、ミナンガのムスリムはハジの家に集まって会食したようだ。私もおすそ分けにあずかる。私を見ると、子どもたちが駆け寄って来て、「喜捨」をせがむ。私はムスリムではないと言っても子どもには分からないので、小銭を配った。夕方、雨が激しく降る。

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写真16  リアンを掘る。
入り口は約1メートルの方形で、奥行きは2〜3メートル、高さは1.5メートル位

 

11月22日

 休息日。朝、インド・サッカの親族関係を整理する。系図を作っていると、ソ・サットゥと一緒にアンベ・ボッコという名の「きちがい」(トラジャ語ではto maro-maro)がやって来た。とめどもなく喋る。知識は普通以上にある。フーコーは狂人を他者とのコミュニケーションの不能者と定義したが、トラジャの人びとは狂人に寛容である。社会や儀礼から締めだそうとはしないし、ものがあればめぐんでやる。少し頭のおかしいアンベ・バラオなども村人と一緒にマバドンをする。また、ライ患者が肉の分け前を求めて葬式に来ていたこともあったが、排除されなかった。昼寝のあと、猫のカンカンの失踪騒ぎ。大騒ぎの末、台所の片隅にいたところを近所の子どもが見つけてくれた。夕方、雨。いよいよ雨期の到来か。ネ・スレーマンによると、ポドン(羽蟻)が出はじめているらしい。彼が語ってくれたブル・パラの話の結末で、ブル・パラは鶏とともに天に昇り星(南十字星)になる。妹と犬があとを追って行こうとするが、天へは行けず地中に入って羽蟻になる。羽蟻は雨期の直前に地中から出てくるが、これは年に1度の両者(兄と妹、鶏と犬)の再会だとされている。ハジの家の近くでは鶏の病気が流行しているらしい。

 

11月23日

 マカレの雑貨屋で昨夜割れた石油ランプのガラスなどを購入。そのあとランダナンへ行く。トンコナンを修理していた村人にタバコとあめ玉をあげると、ガウレンバンの家族が自分たちにはないのかと言う。王族層といっても「物乞いをする」(minta)という点では平民層・奴隷層と変わりない。彼らが大事にする「恥」(siri’)はないのかと言いたくなる。見ていた妻も腹を立てる。ランダナンに行ったあとはいつも気分が悪い。

 

11月24日

 インド・サッカの葬儀、遺体がリアンに納められたあとも儀礼は続いている。考えてみれば、日本でも葬式が終わってからも、初7日とか、初盆とか、1周忌、3回忌、7回忌・・・といろいろと法事が続くわけだ。今日はマボロン(ma’bolong)=「黒く染める」という儀礼。家の近くの田んぼで衣を黒く染める(写真17)。死者に哀悼の意を表すためだというが、この「黒衣」は4日後のマパランダン・ボンボ(ma’parandan bombo)=「死霊に供物を捧げる」儀礼の際にかぶる。米倉の下のオープンスペースで親族が水牛の供犠をめぐって口論していた。夕方、雨。近所の中学生(?)ソ・ネゴがカチャピという船型をした2弦のギターを持ってやって来て、弾いてくれる(写真18)。

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写真17 マボロン。衣を黒く染める。
右側の女性は服喪をあらわす頭被り(ポテ)を着けている

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写真18 カチャピ。船型をした2弦楽器

 

11月25日

 午前中、デスクワーク。以前写した裁判記録の遺産相続に関する部分を読む。また、明日はトービーとチャールズに会ってランテパオ地域とマカレ地域の違いについて議論することになっているので、論点を整理する。昼寝。夕方、雨がかなり降る。今夜は満月で、今期はじめてのポドン(羽蟻)捕り(写真19)ということでインド・セサとネ・ルケがサトウヤシの葉で仕掛けを作る。羽蟻捕りをもって稲作シーズンが始まる。トラジャの稲作の「新年」を告げる風物詩であるが、羽蟻は彼らにとって重要なタンパク源でもある。炒って食べると、干し海老のような食感がある。

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写真19 羽蟻捕り

 

※次回は2/22日(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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トラジャの人びと

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