トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第19回 ミナンガの稲刈り、民博展示用の米倉の製作、マネネ、稲刈りと葬式 1977.8.20〜9.1

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8月20日

 プアンの大きな田んぼ──ミナンガという名前がついている──で稲刈りが始まる(註1)。まずpa’bulo-buloという儀礼がおこなわれる。初穂儀礼の時のように(註2)、ネ・ルケが竹筒で炊いたご飯を白檀の葉にのせて稲穂の上に置き、あぜ道や台所に供える。そのあと、稲刈り(マカンカン 註3)開始。ただし、今日マカンカンにきたのは6人のみだった。水田ミナンガの稲刈りは通常約1週間かかるという。10時頃アンベ・パイビンの家に行き、村を巡回している呪医(註4)から病気や治療法について話を聞く。午後、R. T. タンティ(註5)のインド・バクのところで作業していた彫り物師 (to manura’) にウキラン(彫り物) の文様について尋ねる(写真1)。彼の弟も学校が休みで手伝いにきていた。ミナンガに戻って、夕方、インド・セサの家に行く。8月17日の朝、11番目の子ども(男の子)が生まれたのだ。4200グラムの大きな子で、名前はまだない。インド・セサによると、この前ネ・タッピの娘の葬式で家畜を供犠しなかったのは(註6)、「貧乏なため」ではなく、葬式の会合に来なかった親族に腹をたてたからとのこと。聞き取り調査においては、人の言うことを簡単に信じてはならない。「裏を取る」ことが大事だ。

註1 プアンはカンプン・タンティに8枚の田んぼを持っており、水田ミナンガはそのうち最も大きく、15人の小作が耕作し、24,000束の稲がとれる。
註2 第18回1977年8月3日写真1参照。
註3 マカンカン (ma’kangkan) とは、報酬をもらって稲を刈ること。通常10束刈って1束 (搗くと約1リットル分の米になる)が取り分となる。田を持たない者にとっては米を得るための重要な手段である。第16回1977年6月30日参照。
註4 第18回1977年8月17日参照。
註5  R. T. (Rumah Tetangga) はカンプンの下位単位でいわば「隣組」。カンプン・タンティは、アバトゥ、カラン、バラナ、タンティ、ミナンガの5つの隣組に分かれる。
註6  第18回1977年8月15日参照。

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写真1 ウキランを彫る彫り物師

 

8月21日

 インド・ナ・ライ(プアンの娘)とパ・サックン(プアンの妹の夫)とともに、バトゥ・アル(サンガラ郡)のアンベ・ソ・ルナ(インド・ナ・ライの夫の叔父)の葬式に行く。プアンは、稲刈り中に葬式に行くのはペマリ(タブー)だと言って参列しなかった。稲(生)と葬式(死)は混同してはならないのだ。弔問客の受付後、男女のグループに分かれて接待がおこなわれる(写真2〜4)。中部スラウェシ州の知事も来ていたらしい。接待を受けたあと、私たちは祭宴小屋 (lantang) の1室を与えられ休憩した。祭宴小屋の同室者はネネ(祖父母)を共有する拡大家族(3世代、イトコを含む)である。死者はキリスト教徒だが、葬式はアダット(伝統宗教)の要素を入れた折衷様式で、王族の葬儀らしくとても華やかにおこなわれた。この葬式では計47頭の水牛が供犠されたという。夜は祭宴小屋には泊まらず、マカレに戻り、インド・ナ・ライの家に泊めてもらう。この葬式を通して県南部地域の王族ファミリーと広く知り合う機会を得た。

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写真2 弔問客の接待。先頭の案内人はビーズ細工の装身具(カンダウレ)を着けている

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写真3 接待を受ける男性弔問客。男女で分かれて接待を受ける

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写真4 接待を受ける女性弔問客

 

8月22日

 朝10時過ぎにミナンガに戻る。早朝、三井物産の藤井さんが訪ねてきたとのことで、午後、彼が滞在しているランテパオに出かける。レストラン・ラフマットで藤井さんを見つけて民博展示用の米倉について話す。8月31日には船に乗せたいとのこと。製作中の米倉については、出来(品質)が少し悪いのではないかと藤井さんのコメント。遅くなったので、トアルコ事務所に泊めてもらおうと思ったが、事務所には人は泊めない規則だということで、タナ・ブアというホテルに宿をとる。トアルコのパダマランコーヒー農園担当の清野さんと夜遅くまで話す。

 

8月23日

 朝、米倉を製作している大工、ポン・ランガを訪ねる。家の裏の作業場で米倉の組み立て作業が進んでいた(写真5)。作業状況をチェックした後、パンガラ(リンディンガロ郡)のマネネを見に行く予定だったが、疲れもあり、いったんミナンガに戻る。ミナンガでは、水田ミナンガに隣接するサル・ブロという田んぼのマカンカンは今日で終了ということで、300人を越えるト・マカンカン(稲刈り人)が来ていた。一方、プアンの水田ミナンガは稲が刈りにくいらしく、ト・マカンカンはあまり来ていない。民博の吉田集而さんから手紙。妻が子猫をもらってきて飼い始める。マカンカンの季節に合わせてカンカンと命名。

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写真5 民博展示用の米倉の組み立て。屋根の構造が見える

 

8月24日

 朝、雨。昨日の疲れで、Bingkisan(註7)を読みながら寝てしまった。午後、プアン、インド・ネゴ、ネ・ブトなどの田んぼの稲刈りの状況を見る。水田ミナンガのト・マカンカンは30人くらい。夕方、米倉の前に、収穫した稲を並べ、稲束を数える(写真6)。ト・マカンカンはそれぞれの取り分(収穫量の10分の1)をもらって家路につく(写真7)。1日の終わりのおだやかな光景だ。ネ・ブトの田は、ウマ・マナ(uma mana’)と呼ばれるトンコナンの共有田である。収穫した稲の分配法を聞こうとしたが、今日は忙しいので収穫後にしてくれとのことだった。インド・ナ・ライの娘(プアンの孫)のアティが、プアサ(イスラムの断食)で学校が休みでミナンガに泊まりに来る。

註7 南スラウェシ文化研究誌。第17回1977年7月30日参照。

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写真6 米倉の前に稲を並べ、収穫した稲束を数える

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写真7 稲刈りを終えて家路につくト・マカンカンたち

 

8月25日

 午前中、ランテパオ近郊のケテ・ケス近くのポン・ランガのところに行き、米倉の製作状況を見る。骨格はほぼ完成している。午後、ポン・ランガの家族とともにパンガラのマネネを見に行く。彼のジープに乗せてもらってデコボコの山道を行く。途中、バトゥ・トモンガ(註8)の近くでは葬儀がおこなわれていた。トンドック・リタックで降ろしてもらい、トービーとチャールズから借りていたお金(註9)とクリスタルの論文を返し、馬淵東一先生の鍛冶屋の論文を貸す(2人は不在だったが、家主に託ける)。しばらく行くと、ジープの後輪がはずれて動けなくなり、パンガラまで歩いて行くはめになった。夜はポン・ランガの奥さんの実家(叔父が住んでいる)に泊めてもらう。マネネの話などを聞く。バルプ(註10)では毎年マネネをやっているが、パンガラではマネネは5年に1度だという。

註8 第4回1976年11月21日写真6参照。
註9 第18回1977年8月11日参照。
註10 パンガラの北西に位置するリンディガロ郡の一番奥の村。第11回1977年3月27日参照。

 

8月26日

 ポン・ランガの奥さんの家族がシリ・ピナン(キンマの葉とビンロウジの実)を捧げに行く(ma'pangan)というので同行する。彼女はキリスト教徒なので、シリ・ピナンの代わりに花と菓子を捧げた。彼女が参ったのは、父親、姉妹、それに祖父母の墓だが、墓はリアン(壁龕墓)ではなく、埋葬墓だった。バルプなどでは供物を捧げる儀礼はおこなわれないとのことだから、墓参して遺体あるいはタウタウ(副葬用の人形)を包み直す、あるいは着せ替えるというのがマネネのエッセンスなのかもしれない。ポン・ランガの奥さんも祖母(父の母)のタウタウの衣服を新しいものに着せ替えた(写真8)。以前メロック儀礼を見に訪れたラリカン(註11)でもマネネをやっているということだったが、時間的に無理なので行くのは諦める。リンディンガロ郡役場で統計資料などを写す。昼食後、バスを待っていたが、なかなか来ないので、応急修理したポン・ランガのジープに乗せてもらう。4、5時間かかったが無事ランテパオに到着。途中、トンドック・リタックではチャールズに会うことができた。夜は、ポン・ランガの家に泊めてもらう。

註11 第3回1976年11月6日参照。

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写真8 マネネでタウタウを着せ替える

 

8月27日

 午前中、ポン・ランガの家の近くの作業場で民博展示用の米倉についての聞き取り。時間がなくて屋根の部分については十分な聞き取りができなかった。竹を割って葺く屋根は、素材を送って日本で葺くことになるのだが、うまく葺けるかどうか心配だ。できあがった米倉は明後日ウジュンパンダンに送り、8月31日に船積みし、日本に送られることになる。藤井さんの言うように、できばえは少々手抜きの印象。昼過ぎ、ミナンガに戻る。プアンの田んぼは相変わらずト・マカンカンが少ない。今日は40人くらい。LIPI(インドネシア科学院)、親父、弟から手紙が届く。

 

8月28日

 朝、サロンベのトラジャの儀礼についての小冊子(註12)を読み直す。午後、弟に手紙を書く。ミナンガの稲刈りの状況を見る。夜、展示用の米倉の件で民博の吉田さんに手紙を書く。インド・ロモの妹、ライ・タッピが昨日亡くなったとの知らせ。彼女も死ぬ前に(キリスト教徒の姉にならって)キリスト教徒になったらしい。ネ・ピアのケースに似ている(註13)。バリに住んでいる県知事の4男ジミーが昨夜トラジャに戻ってきて、バトゥ・キラの別荘に行く途中、妹のカルティカとともにプアンに会いに来る。プアンにとっては孫たちの来訪だ。最近、夕食をプアンと一緒に食べているが(ただし、献立は別々)、今日のプアンの夕食は米飯、魚(bale kiru 淡水魚)の揚げ物、昼食の魚の竹筒料理(piong bale)の残り、それにヤシ酒。昨日、台所小屋の拡大工事は終了。工賃は4000ルピアだったとのこと。そろそろフィールドノートを整理する必要がある。

註12 Salombe’, C. 1972. Orang Toraja dengan Ritusnya: In Memoriam Laso’ Rinding Puang Sangalla’. Ujung Pandang.
註13 第15回1977年6月14日参照。

 

8月29日

 朝、マカレから老婆(誰かは不詳)が来て、プアンに米を乞う。水田ミナンガのト・マカンカン、今日は40〜50人くらい。ネ・パレンゲ、ト・ミナア(伝統宗教の祭祀)のネ・カダッケが来て、稲作(生)に関することと死に関することは混同してはならないので、ライ・タッピの葬式は水田ミナンガの稲刈りが終わってからにすべきだと助言。今日のプアンの夕食は米飯のお焦げ、魚のすり身、豆の葉、ヤシ酒。

 

8月30日

 朝、ライ・タッピの親族が葬式についてプアンに相談に来る。稲刈りの終了を待たず、葬式を挙行したいようだ。午後、メンケンデック郡内のk5キロリマ(マカレより5キロの地点)および k6キロアナム(マカレより6キロの地点)にある米倉の写真を撮り、吉田さんに送ることにする。妻はマカレでパーマをかけてもらう。チリチリのアフロルック(?)で1500ルピアとのこと。夜、イスラム教徒のネ・シッティと一緒にプアサ(断食)中のミナンガのモスクを見に行く。イスラムの礼拝は非常に様式化されていて、見ていて泥臭さがない(註14)。宗教としての完成度が高いのかもしれない。今日はプアサ(断食)の中日で、モスクには70人くらいが集まっていた。夜の食事として蒸しパンと赤米のちまきがふるまわれていた。インド・ナ・ライが米を取りに来る。マカレのインド・ナ・ライの田んぼはすでに稲刈りを終えたらしい。

註14 第13回1977年5月19日写真3参照。

 

8月31日

 朝、カラン3という水田を見に行く。稲刈りはもう終わっている。この田んぼの所有者はSさんだが、その5分の1をLさんに、5分の1をPさんに質入れ(インドネシア語でgadai、トラジャ語ではmentoe’)している。こうした質入れされた田はかなり一般的だという。質入れの理由は儀礼の費用や賭け事のためらしい。昼寝後、ライ・タッピの家を訪れる。彼女は例の巡回呪医の治療を受けたが(霊験あらたかとされる石に浸した水を飲まされ、4500ルピア払ったという)、回復せず、4日前に亡くなった。このところ通夜(ma'doya)が続いている。親族がプアンに葬式の相談に来る。

 

9月1日

 今日から9月。朝、ネ・カダッケが来る。ライ・タッピの葬式をプアンの田んぼの稲刈り中におこなえるかどうかが話の中心。午前中、ミナンガ周辺の田んぼを見て歩く。バラナでは稲刈り終了。タンティも半分以上が終了。メンケンデック地域の水田は数世代前の祖先の血を引く者たちの共同所有という形態 (uma panga’pa’)が多いらしい。トンコナン・サニックの新築現場に寄る。米倉も新築するようだ。費用は大工や彫り物師に水牛何頭というかたちで支払う。稲刈り中の水田パナランで話を聞き、ミナンガに戻る。マンディ(水浴び)して昼食、そして昼寝。夕方、インド・ナ・ライが来る。タンティのカンプン長、ネ・カダッケ、アンベ・シアンなどを交えて、ライ・タッピの葬式について議論。結局、葬式はおこなわれることになったようだ。ライ・タッピがキリスト教徒になったので、伝統宗教における稲作と葬式に関するタブーは適用されないということかもしれない。プアンはこの葬式に水牛1頭を”tangkean suru’”(香典)として提供したいと主張したが、ライ・タッピの親族側はこれを受け入れなかった。受け入れると、プアンのカウナン(奴隷)という関係が続くので、借金をしてでも自分で出したいという考えのようだった。ネ・ピアの葬式のときのネ・ルケと同じパターンだ(註15)。話が長引いたので、夕食が提供される。

註15 第15回1977年6月15日参照。

 

※次回は12/28(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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