トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第6回 トラジャのお正月、コミュニティ・スタディに着手 1977.1.1〜1.14

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1977年1月1日

 元旦。赤飯──アズキではなく、カチャン・メラという赤い豆を餅米に混ぜて炊いたもの──を食べ、(貴重な)インスタント味噌汁をすすって、「おせち」とした。お正月といっても何もすることがないので本を読んでいると、村人が「スラマット・タフンバル」(Selamat Tahun Baruインドネシア語で「新年おめでとう」)と言いながら挨拶に来た。夕方にも近所の子どもたちが息せき切ってやって来た。イスラム教徒の喜捨をまねた習俗では、こうした際、金持ちは水牛や豚などを屠って肉を貧しい人にふるまうらしい。私たちのところにもそれを期待してやって来たのかもしれない。トラジャの元旦はゆっくりとした休日という感じで、天気も良く、気持ちよかった。南洋の正月ものどかでなかなかよい。

 

1月2日

 家で仕事。プアン・ガウレンバンから借りたタイプスクリプトを写す。M. ラジャブのインドネシア語のトラジャ民族誌 Toradja Sa’dan(註1)を読む。夜、雨が激しく降る。そろそろミナンガでのインテンシブなコミュニティ・スタディに着手する必要がある。というのも、対面的な人間関係に基づいた調査をおこなえるのはここだけなのだから。何から手をつけるべきか。まず村落内を歩いて地図を作ろう。それから各戸の家族構成を調べるという順序か。

註1 Radjab, Muhamad. Toradja Sa’dan.  Balai Pustaka.

 

1月3日

 昼前、マカレの警察暑で在留届の延長。午後、ミナンガに戻る。昼寝のあと、賀状を兼ねて先生や友人たちに便りを書く。ジャワを研究している関本照夫さんへの手紙ではトラジャの居心地の悪さを強調しすぎたかもしれない。そもそも異邦での暮らしはとかく居心地の悪いもので、これをよく認識しておかないと国際交流といっても絵空事でしかない。ネ・ピアからナンカ(ジャックフルーツ)の実をもらう。奇妙な果実だが、甘くておいしい。

 

1月4日

 ケペで葬式があるというので、昼食後、見学に出かける。死者は生後20日くらいの赤ん坊だという。白い布にくるまれた小さな棺に納まっていた(写真1)。遺族たちは男女のグループに分かれ、男たちはトランプをしていた。遺族の一人が口上を述べ、子どもを失った母親がウンバティン(儀礼的涕泣)をした。墓地に行く途中、村人が伝統宗教では歯が生える前の子どもの遺体は樹木の中に埋め込まれると教えてくれ、その樹を見せてくれた(写真2)。遺体はケペのキリスト教徒の墓地の一角に埋められた(写真3)。ガウレンバンから借りたタイプスクリプトを写し終わる。馬淵東一先生から手紙──農具なども調べろと書いてある。

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写真1 キリスト教徒の子どもの葬儀

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写真2 伝統宗教による幼児の樹木葬。樹に穴を掘って遺体を収め、覆いをする

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写真3 キリスト教徒の墓地での埋葬儀礼


1月5日

 灯油コンロの芯がダメになり、マカレに買いにいく。ついでに郵便局から手紙を出す。県役場の宗教課に行って、統計などを写す。キリスト教徒がおよそ60%(プロテスタント48%、カトリック12%)、イスラム教徒が10%、伝統宗教(アルック・ト・ドロ)信奉者が30%となっている(1975年)。市場でいろいろ買い物をしてミナンガに戻る。たくさん買って帰ってくる自分がイヤになる。買い物をする金がない貧しい村人が多いのに、私たちだけが「豊かに」買い物をしてくるのだ。とくに肉の缶詰などは子どもたちが空き缶をあさりに来るので問題だ。村人の生活ではゴミがほとんど出ないのに、私たちだけがゴミを出す──「文明人」の弊害である。彼らは私たちをどう見ているのか。私は彼らの生活を調べにきたのだが、私たちの方が見られているような気がする。そんなことを考えながら、夜空を見上げると月がとてもきれいだった。自然は裏切らない。

 

1月6日

 午前中、カンプン・タンティのコミュニティ・スタディに着手しようと手始めに村長ハジに聞き取りをおこなう。ハジの父親はマカレ出身の王族プアン・アンディロロで、家主プアン・ミナンガの異母弟、県知事の叔父に当たる。以前はキリスト教徒だったらしいが、ピンラン(南スラウェシ州ピンラン県)出身の現在の妻と結婚したときイスラム教に改宗したという。1966年にメッカへ行き、「ハジ」の称号を得ている。プアン・ミナンガが伝統主義者であるのに対し、ハジは新しいものを積極的に取り入れる近代合理主義者である。午後は、ルケとミナンガの子どもたちと一緒にわが家から裏山の尾根を通ってケペに至る道を歩く(写真4)。裏山には20戸ほどの家があり、どれも茅葺きで、カウナンと呼ばれる「奴隷層」に属する貧しい家が多い。子どもたちが路傍の草花の名前を教えてくれる。実に多種多様な草花があるのに驚く。下っていくと畑があり、作業をしていたインド・セサが採れたてのトウモロコシを焼いてくれた。甘くてとてもおいしかった。畑にはトウモロコシのほか、キャッサバ、サツマイモなどが植えられている(写真5)。夜はガウレンバンのタイプスクリプトからトラジャの王族の系図を作る作業をする。若干、風邪気味。

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写真4 妻とミナンガの子どもたち

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写真5 畑仕事。掘り棒 (pekali) を使ってサツマイモを掘る

 

1月7日

 午前中、ハジの家の一角に作られた村役場の事務所で、昨年1年間にティノリン村でおこなわれた儀礼のデータを写す。記録では52件のペスタ(儀礼)がおこなわれたと報告されており、大半は葬儀である。ただし儀礼で家畜を供犠すると税金がかかるので、(税金対策上)報告されないケースも多いという。昼寝のあと、バトゥ・キラでトラジャ語のレッスン。夜、クンチョロニングラトの論文”The Village in Indonesia Today”(註2)を読む。

註2 Koentjaraningrat ed. 1967. Villages in Indonesia. Cornell University Press, pp.386-405.

 

1月8日

 午前中、ランダナンのプアン・ガウレンバン宅。彼のトラジャの王族に関するタイプスクリプトを返し、いろいろ質問する。口碑伝承も知りたいと伝えると、これは高いぞと言いながら戸棚から数十頁のタイプスクリプトを取り出してきた。エリック・クリスタルは「授業料」として200ドル払ったと言い、私にも要求してきたのだ。情報(知識)を金で「買う」ということには抵抗があるが、なにがしかのお礼はしなければなるまい。帰宅後、妻と相談して1万ルピアほどお礼することにした。

 

1月9日

 朝、ジェトロの竹田さんがひょっこり訪ねてきた。竹田さんはジャカルタのインドネシア大学で同じインドネシア語クラスに通っていた仲間である。カリマンタン、メナド、パル、ウジュンパンダンを旅行してきたという。突然の訪問者はこれで3人目。この日はプアン・ソンボリンギに会いにいくことになっていたので、一緒に出かける。ソンボリンギはサンガラの王族の1人で、プアン・サンガラ夫人(彼の叔母に当たる)の葬儀の執行委員長をやっていた人物(註3)だ。その一方で、浪費的なトラジャの葬儀のあり方に批判的な近代人でもある。夜は彼の家に泊めてもらった。

註3 第2回9月27〜29日の日記参照。

 

1月10日

 朝、ソンボリンギの家を出、プアン・パンタンのところに寄る。サンガラ王族の系図はソンボリンギのところに置いてきたので、系図については次回尋ねることにして、彼の家族について聞き取りをおこなった。彼が住んでいるトンコナンの周囲にはかつて供犠したおびただしい数の水牛の角が飾られていた(写真6)。富の象徴として水牛のモチーフはトンコナンの壁にも彫刻されている(写真7)。また、家の近くに巨石が並んで建っている広場(ランテ)があり、彼の母(プアン・サンガラの妹)の葬儀ではこの広場が使われたという。午後はマクラ温泉に行き、竹田さんと一緒に泊まる。

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写真6 トンコナンの周囲に飾られた水牛の角

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写真7 トンコナンの壁に彫られた水牛のモチーフ

 

1月11日

 朝、マクラを発ち、サンガラの市場を見て、その後、竹田さんと一緒にレモ(マカレ郡)、ケテ・ケス(サンガランギ郡)とトラジャの観光コースを見て回る。ケテ・ケスでは米倉のウキラン(彫刻)の文様を彫っているところに出くわした(写真8)。マカレからの注文で、仕上げると75万ルピアの収入になるという。ウキランの文様について尋ねる。ミナンガに戻ってみると、なにやら騒がしい。プアンが娘のインド・ナ・ライの快気祝いで、近所の村人たちに米を配っていた。マスカ(ma’suka)と呼ばれる慣習である(写真9)。富の再分配でもある。

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写真8 ウキランの文様を彫る

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写真9 近所の村人への米の配分

 

1月12日

 竹田さんとパロポにでも行こうかと大通りに出てバスを待っていると、村井吉敬さん夫妻が歩いて来るのが見えた。村井さんは文部省アジア諸国派遣留学生の1年先輩で、バンドンで経済学の観点からインドネシアを研究している。村井さんも連絡なしの突然の訪問である。トラジャは1泊だけだというので、昨日同様、レモ、ロンダ(サンガランギ郡)、パラワ(セセアン郡)などトラジャ観光の定番を案内して、ランテパオのウィスマに5人で泊まった。久しぶりの再会だったので夜遅くまでとりとめもなく話した。ミナンガのわが家に来てもらいたかったが、時間がないということだった。

 

1月13日

 竹田さんと村井夫妻は朝便のバスでウジュンパンダンへ向かった。村井夫妻のトラジャに1日のみ滞在というスケジュールは少々あわただしすぎたのではないか。見せたいものも見せられなかった。彼らが帰った後、私たちはいつもの生活に戻った。気持ちを切り替えるために、丘に登りカンプン・タンティを眺望する。ネ・ピアが飼っているネキという名の犬がお供をして頂上までついてきた。風がさわやかに吹き、癒やされる。

 

1月14日

 午前中、デスクワーク。LebarのEthnic Groups in Insular Southeast Asia(註4)のCelebesに関する項目を読み直す。トラジャの民族誌研究はスラウェシ全体のなかに置いてみるときはじめて十分な理解を得られると思う。昼食後、ルケを連れてR. T. ミナンガ ──R. T.(Rukun Tetangga)とはカンプンの下位単位でいわば「隣組」。日本統治期に導入されたという──の大通りの向こう側の集落を歩いてみる。この地区の集落の歴史などはよく分からない。トンコナン・ブントゥ・タンティはもともと山の上にあったというから、この地区はオランダ統治期以降に新しく開けた集落かもしれない。現在でも県北部のセセアン郡やリンディンガロ郡の集落に見られるように(写真10)、カンプン・タンティの集落も元来は山の上にあったのかもしれない。

註4 Lebar, Frank. M. ed. Ethnic Groups of Insular Southeast Asia. Vol. 1. Human Relations Area Files Press, pp.124-147.

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写真10 山の上の集落(リンディンガロ郡)

※次回は6/29(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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トンコナンハウス

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