トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第24回 調査も終盤、新しい稲作サイクルの始まり、村の歴史 1977.11.26〜12.17

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11月26日

 トンドック・リタック(セセアン郡)のトービーとチャールズを訪ねる。久しぶりに意見交換をするためだ。まずランテパオの銀行(BRI)に寄り、20万ルピアおろす。ランテパオからセセアン方面行きのミニバスに乗る。値下げ後の新料金は300ルピアになるはずだが、運転手は従来通りの500ルピアを要求してきた。文句を言ったが聞き入れてくれず、500ルピア払う。「外国人料金」かもしれない。トービーたちとの意見交換は、私からの情報提供が多く、彼らから私が得た情報は少なかった。ただ、チャールズの関心──鍛冶屋、織物、紙──は、うまく発展できれば面白い研究になるかもしれないと思った。チャールズの誕生日が近いということで、夕食には彼らの家主ママ・アグスが作ったケーキが出て、私たちもご相伴にあずかった。夜10時頃まで議論して、彼らのところに泊めてもらう。

 

11月27日

 昼近く、トービーとチャールズの家を出る。ここでもポドン(羽蟻)の季節で、朝、家の裏庭にはポドンがいたるところに出現していた。ランテパオのワルン(屋台店)で食事をしたあと、おみやげ屋を覗き、サダン織り(註1)を3枚、カイン・ポンダン(パイナップルの繊維で織ったもの。日本統治時代には木綿布がなく、これで代用したらしい)、サロン(腰布)など計7800ルピアほど購入。そのあと、トアルコ事務所に寄る。清野さんは、日本に残してきた子どもに会うため12月に帰国とのこと。夕方、大雨のなかミナンガに戻る。台所にいた猫のカンカンが激しく鳴きながら出てきた。一晩の間に顔はすすけ、体はのみだらけ。

註1 第4回11月21日写真5参照。

 

11月28日

 朝、写真の整理。午後からケペにインド・サッカの葬儀を見に行く。今日はマパランダン・ボンボ(ma’paradang bombo) =「死霊に供物を捧げる」儀礼。3時頃、雨がやんだところでリアン(壁龕墓)へ行き、供物を供える(写真1)。ケンデック(1938年から57年までカンプン長を務めた)から話を聞く。6時頃ミナンガに戻る。内堀基光さん、吉田集而さん、研究社から手紙が届く。吉田さんからは国立民族学博物館オープンの知らせ。研究社からはマイケル・レイン編『構造主義』所収のエドマンド・リーチの論文「ソロモンの正統性」の校正ゲラ。夜、ネ・スレーマンから民話 (ulelean)を聞く。

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写真1 ポテ(頭被り)を着けてリアンに向かう儀礼的役職者たち

 

11月29日

 朝、ゲラの校正。午後、ケペのインド・サッカの葬儀の続き、マポリ(ma’poli)儀礼を見に行く。この儀礼では、豚が1頭供犠され、ト・マロ (to maro’)、つまり死者儀礼における米食のタブーに服している儀礼的役職者が肉の分け前を受け取った。この段階になると、儀礼はマンターダ(祖先祭)の形式に近くなり、全員が共食した後、儀礼は終了した。インド・サッカの葬儀と関連した闘鶏は、今年の許可件数はすでに一杯で許可されなかったが、ヤミの闘鶏がおこなわれていた。今日も断続的に雨が降る。

 

11月30日

 私たちの滞在期間もあと1ヶ月余りとなり、調査も終盤である。朝、大通りに出て、リーマン(バス会社名)でウジュンパンダンに向かうトービーとチャールズに現像に出してもらうフィルムのロールを託す。そのあとハジの家でピンラン(マカレより南方116kmにあるブギス人の町)での結婚式を終えたばかりのサンペの奥さんに会う。マカレに行った妻に吉田さんへの手紙を投函してもらう。調査のやり残しをチェック。まずは村の創始者の伝承を整理しておこうと、これまで集めた親族関係の系図を見直していたら昼になった。Evans-PritchardのThe Nuer(註2)を読みながら昼寝してしまう。日本から送ってもらった野菜の種を植えようとしたが、植え方が分からず雨も降ってきたので、ひとまず中止する。夕方、トラジャ語の教師のフランツがやって来て、夕食をはさんで9時頃まで雑談する。

註2 Evans-Pritchard, E. E. 1969 (1940). The Nuer. Oxford University Press.

 

12月1日

 今日から12月。午前中、近所の子どもに手伝ってもらい日本から送られてきた野菜の種を畑に植える。芽が出るのかどうかは疑問だ。昼頃から雨が降り始めて、午後中、雨。もう10日くらい毎日雨が降っている。雨期に入ったようだ。昼寝のあと、トラジャの神話伝承を整理する。村内ではまだポドン取りが続いている。マカレの市場ではポドンが1カップあたり10リンギット(25ルピア)(註3)で売られているらしい。夕食後、アボカドのジュースを飲む。ジャカルタでよく食べていたアボカドのアイスクリームを思い出す。ピーターから手紙。体調をくずしてトラジャには来ることができないとのこと。

註3 リンギット(ringgit)はマレーシアの通貨単位だが、トラジャではこのマレー語起源の言葉(ringgi’と表記)がしばしば使われ、1リンギット=2.5 ルピアに換算されていた。

 

12月2日

 朝から夕方までゲラを校正するが、半分も進まなかった。夕方、フランツが来て子ども用の民話を紹介してくれる。また、「惚れ薬」(pangissan)の話を聞く。トラジャでは婚前交渉は当たり前らしい。中学、高校では性的経験を持っているのが普通とのこと。処女はとくに大切なものとは考えられていないらしい。

 

12月3日

 午前中、ゲラの校正の続き。妻はメバリの市場に買い物に行く。今日は彼女の誕生日。ハジのところから泡立て器を借りてきて、自家製のチーズケーキを作る。私は、インド・サッカのマロロ・タンガ (malolo tanga) 儀礼があると聞きケペに出かけるが、昨日おこなわれたようで、人びとはサイコロ賭博に熱中していた。妻への誕生日の贈り物といっても何もないので、マカレに行ってビールを1本買い、夕食時にプレゼントした。マカレの娘のところに行っていたプアンから、明日マンカロ・ブブン(mangkalo’ bubun)=「井戸を清浄にする」儀礼をおこなうとの伝言。いよいよ新しい稲作サイクルが始まる。

 

12月4日

 午前中、プアンの井戸でマンカロ・ブブン儀礼(写真2)。井戸の水を用いて、米飯の竹筒料理を作り(写真2)、鶏を供犠する (写真4)。私たちも米飯の竹筒料理を1本いただいた。日曜日なのでランダナンのプアン・ガウレンバンのところに口碑伝承のタイプ打ちに行かなければと思ったが、ゲラの校正が終わらなくて、行けず。夜までかかってようやく校正は完了。

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写真2 マンカロ・ブブン儀礼。新しい稲作のサイクルの始まり

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写真3 井戸の水を入れて米飯の竹筒料理を作る

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写真4 鶏の供犠

 

12月5日

 朝、マカレ郵便局から校正ゲラを研究社に送る。帰路、ランダナンに寄り、口碑伝承のタイプ打ち。ガウレンバン宅にはジャカルタとウジュンパンダンから親戚が来ていて賑やかだった。食用に鶏をつぶしたようで、私たちもご馳走にあずかった。今日でめでたくタイプ打ちは終了。ポン・リタ(王族出身のケペのカンプン長)が死んだという知らせが入る。3日前にマカレのパク病院で息を引き取り、遺体はケペの自宅に搬送されたらしい。ガウレンバンがきっとディラパイ(dirapai’ 最高ランクの死者祭宴)になるぞと言っていた。雨のなかをミナンガに帰る。

 

12月6日

 午前中、家で仕事。馬淵東一先生、東京銀行ジャカルタ支店、トービーとチャールズから手紙。午後からケペに行く。インド・サッカのマロロ・タル(malolo tarru)=「完全な解放」儀礼を見る。これでインド・サッカの葬儀の儀礼的役職者たちも通常の食事に戻ることができる。このあと一定期間後にマパカンデ・マセロ(ma’pakande masero)=「清浄な食事を供する」儀礼をおこなってトラジャの死の儀礼プロセスは完了する。ところで、パンロレアンのカンプン長の話では、かつてプアン・ランダナンとパンロレアンとの戦争があり、パンロレアン側はトンコナン・サッサに3ヶ月こもって戦ったが、敗れた。和平交渉でプアン・ランダナンの領土に組み込まれはしたが、賠償金を払ってある程度の独立性を確保した。プアン・アンディロロ(ミナンガのプアンの父)の時代にも、バトゥ・ロンドンとパンロレアンとの戦争があり、ソ・カラン(ト・ミナア祭司ネ・カダッケの義父)がアンディロロ側に殺され、彼のトンコナンの水田がアンディロロ側のプアン・メンデテックに召し上げられたという。そんな村の歴史を今頃になって知る。ミナンガに戻って、ルケから米の消費について聞く。彼女が1日に搗く稲は5束(約5リットル)。ネ・ルケの田んぼからとれた稲は6月頃までになくなるので、6月から9月の収穫までの時期はプアンから借米するしかない。借りは収穫の際に返すという。インド・セサの家でも米は1年もたないという。ただ、インド・セサの場合は夫が給料取りなので米がなくなっても買うことができる。村内では10束で300ルピアが相場とのこと。夜、フランツが来て、民話(Uleleanna Tulang Didi)を語ってくれる。また、昔は陸稲(pare dara)も植えられていて、水稲より美味しかったと話す。

 

12月7日

 フィールドノートの整理。『民族学研究』に投稿するための原稿書き。夜になって雨が降る。トタン屋根なので雨音がうるさいが、私は夜の雨が好きだ。

 

12月8日

 久しぶりにR.T. タンティを歩く。10月に新村長になったネ・コマンダンの家の前で、ネ・ムレと鍛冶屋のネ・ランマンが話していたので、割り込んでマンカロ・ブブン儀礼のことなど聞く。ママサ(タナ・トラジャ県の西に隣接する地域)で中学校の教師をしているというネ・コマンダンのイトコが来ていて、ママサの話をしてくれた。タンティのト・ブンガ・ララン(農耕に関する役職者)の井戸を見せてもらって、タンティ山のリアンの写真を撮る。帰路、ネ・カダッケの家に寄り、対応してくれたネ・ラッタにこの地域のマブギの歌詞(gelong bugi’)を教えて欲しいと頼み、快諾を得る。家に帰ってマンディ(水浴び)。昼食に日本から送ってもらったうどんを食べる。ちょっと休んだ後、『民族学研究』の書評座談会(註4)を読む。長島信弘さんと船曳建夫さんのやりとりが面白かった。

註4 日本民族学会1976「特集:書評座談会」『民族学研究』40(4): 369-407.

 

12月9日

 昨日ネ・ラッタから教えてもらったテガンのマブギ・マガンダン(ma’bugi’ ma’gandang)儀礼を見に行く。1969年頃に亡くなった死者に対するしめくくりの儀礼で、太鼓を叩き(写真5)、マゲル・ダンス(ma’gellu)を踊る(写真6)。これにより死者は神霊(deata)になると考えられる。この死から生への転換のプロセスはトンコナンに取り付けられたパカティック像にも象徴されている(写真7)。テガンにはプアン・ブロ、つまりガウレンバンの祖母のトンコナンがあり、このあたりがメンケンデック王家のルーツの1つかもしれない。近くに20数個の巨石が2列に並んでいるところがあり、リアンには20体くらいのタウタウ(副葬用人形)が置かれていた。今日の発見は、この儀礼のなかでおこなわれるマパコンドン(ma’pakondong)という儀礼がかつての「喪明けの首狩り」に当たるのではないかということだ。そして儀礼共同体(penanian)がさらにボロン(borong)というサブユニットに分かれているということもわかった。このボロンは県北部のサロアン(saroan カンプンの下位単位)に対応するものだろうか。マブギ・マガンダン儀礼で供犠した豚の肉の一片をおみやげにもらって帰宅した。ミナンガでは、ネ・コピがマブンカ・パンタナカン(ma’bungka panta‘nakan)=「苗代を開く」作業を始める。新しい稲作のサイクルが回り出す。

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写真5 マブギ・マガンダン。死者のしめくくり儀礼

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写真6 マゲル・ダンス

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写真7 トンコナンに取り付けられたパカティック像。
死(水牛)から生(鶏)への変換を象徴

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写真8 トンコナン最上部に描かれた鶏と太陽。トラジャにおける生のシンボル

 

12月10日

 朝、マカレの郵便局から文部省に奨学金と旅費請求の手紙を投函する。帰国旅費のための手続きだ。エンレカン(マカレの南76kmにあるエンレカン県の県庁所在地)付近の橋が壊れて、ガソリンの供給が途絶えたらしくバス代が100ルピア上がる。ハジのところで売っている灯油も1リットル45ルピアに値上がりした。トラジャの山奥でも市場の動きに対する反応はとても敏感だ。昼食後、ネ・ラッタにマブギの歌詞を聞きに行ったが、不在。家にいた耳が遠いネ・カダッケと禅問答のような会話をして家に戻った。

 

12月11日

 朝、プアン・メンケンデックの葬儀資料を最終チェックする。昼寝後、再度ネ・ラッタを訪ねたが、また不在。ネ・コマンダンの家に寄って、オランダ時代の村の様子や「恥」(siri’)について聞く。恥はトラジャの死者儀礼を考える際にきわめて重要な概念だ。夕方、チェックし終わったプアン・メンケンデックの葬儀資料をハジに返す。これからトラジャを離れるまでにやらなければならないことなどを書き出してみる。

 

12月12日

 朝、ネ・コピとマカレの市場に行き、私たちのマンターダ儀礼のための小さな豚を23,500ルピアで買う。今は子どもを学校に入れたりするために現金が必要な時期で、換金のために豚を売ることが多いので豚の値段も安いらしい。市場には果物(パイナップル、マルキサ、ジャックフルーツなど)がたくさん出ていた。ジャワなどでよく見かけるテンペ(固形の納豆)が売られていたので買ってみる。市場のワルンで昼食。隣り合わせたラッパン(マカレの南123kmにあるブギスの町)出身のブギスの商人と話す。米を扱っていて、トラジャでは米は高値で売れるという。ミナンガに戻って、ネ・ラッタのところに行くがまたしてもすれ違い。ネ・スレーマンと豚、薬、マンターダの話などをする。プアンはマンターダの日を選ぶときはポ・イマンに聞けと言っていたが、ポ・イマンはムスリムである。プアンは明日ミナンガに戻るとのこと。

 

12月13日

 朝、ネ・ラッタが来る。ようやくマブギの歌詞を教えてもらえると期待したが、今日はこれから苗代を見に行くとかで、中断。村人から口碑伝承のテクストを集めるのはとても難しいと思い知らされる。村役場に行って、これまで見ていなかった村の統計などを写す。土地訴訟に関してはゲーテガンの郡役場にあるというので行ってみたが、担当者が帰宅していて明日また出直すことになった。ミナンガに戻って、昼寝。夕方、ネ・スレーマンとおしゃべり。夕方は村人のゴシップの時間のようだ。弟とLIPI (インドネシア科学院)から手紙。やらなければならないことが多くあるのに、日々は容赦なく過ぎていく。

 

12月14日

 午前中、ゲーテガンの郡役場に行き、土地訴訟についての記録を写す。だが今日は時間切れとなり、もう1度行かなくてはならないようだ。帰路、サンペと一緒になり、新婚生活のことなど聞く。「これまで通り」との答え。昼寝。雨が降り始め、夕食前に大雨となる。種を植えた野菜のあたりに雨がたまって、野菜作りはどうやら失敗か。夜、『民族学研究』用の「トラジャ・フィールド・ノオト」の原稿を書く。あと1日くらいで終わりそうだ。クリスマスまでには完成させたい。

 

12月15日

 午前中、思い立ってタンティ山に登る。アンベ・サットゥの家のそばから登り始める。子どもが道案内してくれた。登り口のところにはかつてブントゥ・モモックとスルランのトンコナンが建っていたらしい。頂上で私たちのトンコナン・ブントゥ・タンティの跡地を見る。1950年代までは水牛も山道を登り、頂上に住む人もいたらしいが、今は藪になっていて道もなくなっている。30年も経たぬ間に村の歴史は自然のなかに消えてしまう。家に戻ると、プアンが戻って来ていた。マンディのあと、本の虫干し。帰る準備を少しずつしなければならない。夕方、プアン、ネ・スレーマンなどと相談して、日曜日に私たちのマンターダをすることに決める。ネ・スレ−マンによると、上弦八夜の月、吉日ということだ。夕方、ネ・コマンダンが来て、プアンなどと一緒に食事。ネ・コマンダンと9時頃までいろいろと話をする。

 

12月16日

 朝、村役場で今年9月以降の儀礼執行届けを写す。続いてゲーテガン郡役場に行き、土地訴訟記録の続きを写す。午後、マカレでインド・ナ・ライと県知事に会い、日曜日のマンターダの件を伝える。ハジとネ・コマンダンの新旧村長も招待することにする。私たちがマカレに行っている間にインド・ロモらが儀礼で消費する稲を搗いてくれる。

 

12月17日

 日曜日のマンターダについて、ガウレンバンにも知らせておかねばと思って、ランダナンに行く。途中で息子のパタラに会ったので、伝言を頼んだ。マカレで儀礼用のビールやビスケットを買う。ミナンガに戻って、パダン(ティノリン村を構成するカンプンの1つ)のトンコナン・ト・イッソン・バトゥの新築儀礼(mangrara banua)を見に行く。竹林の中の奥まったところで結構遠かった。ネ・コマンダンがいて、「ここが私たちのトンコナンなのだ」と言っていた。トラジャのような双系の親族組織では、少しでも親族関係があればどこでも「私たちの」になりうる。12頭もの豚を供犠し、なかなか大きな新築儀礼だった。

 

※次回は3/8日(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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トラジャの男2

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