トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第18回 初穂儀礼、マネネ、村を巡る呪医 1977.8.2〜8.19

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8月2日

 朝8時半頃パレパレを発ち(註1)、トラジャに戻る。ミナンガまで約4時間。帰ってみると、プアンが来ていた。明日、彼女の田んぼの初穂儀礼をおこなうと言う。南山大学の倉田勇先生の一行は、昨夜はマカレのロスメン・インドラに、今日はランテパオのロスメン・フローラに泊まっているとのことで、ロスメン・フローラに彼らを訪ね、トラジャでの滞在スケジュールなど聞く。民博の吉田集而さんが依頼した民博展示用の米倉をランテパオの大工ポン・ランガが作り始めたらしい。近いうちに様子を見に行かなければならない。

註1 前日、ウジュンパンダンからトラジャへの帰路、ブギスの港町パレパレに宿泊。第17回1977年8月1日参照。

 

8月3日

 朝、プアンの田んぼで初穂儀礼がおこなわれる。田んぼから初穂を取ってきて、田んぼのあぜ道などに置き、供物を捧げる(写真1)。9時頃、倉田先生たちがミナンガに来る。淑徳大学の常見純一さんも一緒だった。米倉の下のオープンスペースで一緒に昼食をとり、雑談。夕方、私たちも一緒にマカレへ。倉田先生たちはマカレのロスメン・マルタに宿をとり、市場近くのワルン(屋台店)で一緒に夕食。夕食後、これまでトラジャで撮ったスライド写真を見せる。倉田先生、常見さんから写真がうまいとほめられた。10時過ぎ別れる。インド・ナ・ライの家に泊めてもらう。

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写真1 プアン・ミナンガの田んぼの初穂儀礼

 

8月4日

 朝、倉田先生たちはウジュンパンダンに向かい、私たちはミナンガでの日常生活に戻った。疲れが出たので、少し長めに昼寝する。昼寝から起きてみると、また狂犬騒ぎ。昨夜、番犬のネキが狂犬に噛まれたらしい。インド・ナ・ライのところからタルサンという名の子犬が連れてこられる。これでプアンの番犬は2匹。今回のウジュンパンダン旅行の印象などを列挙してみる。(1) 乾期で平地部は水不足。(2)(トラジャに南接する)ドゥリ人の地域の水田は見劣りする。(3) 稲の貯蔵庫は家の床下空間にあるケースもある(写真2)。(4) (異文化研究が目的で来ているので)日本人とのつきあいはほどほどにすべき。(5)吉田さんの言う「学問はオモロなきゃあかん」は「京都学派」の伝統? (6)倉田先生のインドネシア語は「古い」という印象(先生がインドネシアを学んだのは1960年代。言語も時代とともに変わるのだ)。(7) 同行していた常見さんはひょうひょうとした面白い人だ。色彩調査のためのカラーチャートをいただいた。夕方、雨。村人は「稲刈りの雨」(uran mepare)と呼ぶ。

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写真2 高床式住居の下の空間に設置された稲の貯蔵庫

 

8月5日

 メバリ市場の日。以前サンガラの市場でも見かけたが(註2)、歯医者が市場の一角で歯の治療をしていた。歯医者のことをインドネシア語で”tukang gigi”というが、まさに「歯の職人」だ(tukangは職人、gigiは歯の意)。ミナンガに戻ると、またぞろ狂犬騒ぎ。ネ・タッピの犬が狂犬病を発症し、村人が裏山で包囲し、捕らえ、殺害した。奇声を発しながら犬を捕獲する様は狩猟(あるいは首狩り?)のようだ。犬が死ぬと、“mate mo!”(死んだぞ)と叫んで、”へー”と奇声を上げる。狂犬に噛まれたネキも発症するのではないかと心配だ。常見さんにいただいたカラーチャートを使って、さっそくルケを手はじめに近所の人を相手に色彩認識について調査。

註2 第2回1976年9月11日参照。

 

8月6日

 ランテパオへ行き、BRI (Bank Rakyat Indonesia)で10万ルピア下ろす。トアルコ事務所で清野さんに会う。一緒にワルンに行き、豚肉の竹筒料理とヤシ酒を注文。2人ともトラジャ化してきているのだろうか。清野さんは大胆かつ細心の配慮で頑張っているようだ。パダマラン農園の人作りは成功するかもしれない。農園の日雇いは食事なしで1日550ルピア。常勤従業員は高卒で月1万ルピア。最高で3万ルピア。トンドック・リタックの工場では食事付きで1日350ルピアとのこと。民博展示用の米倉製作の件でポン・ランガに会う。来週中に材料を集めて完成させるので、来週土曜日に見に来てくれとのことだった。

 

8月7日

 日曜日──といっても、ここでの私の生活は土日も平日もあまり関係ない。しかし、生活のリズムとしては、日曜日はやはり日曜日だ。午前中、LIPI (インドネシア科学院)への報告書の下書き。マンディ(水浴び)のあと、昼寝。インド・カルク(ネ・コマンダンの奥さん)、ネ・パレンゲ(トンコナン・ブントゥ・タンティのト・パレンゲ)、アンベ・ナ・アティ(プアンの娘婿)などがプアンを訪ねてくる。インド・カルクはプアンのお世話、蚊帳の修理。ネ・パレンゲとアンベ・ナ・アティはチェンケ(クローブ)を植えるに当たっての儀礼の相談。ところで、寝所として使っているトンコナンの天井を開けてみると、古い写真などが保管されていた。プアンの若い頃の写真、プアン・タロンコ(プアンの父方の祖父)の写真(写真3)、プアン・メンケンデック(プアンの夫)がプアン・マカレ、プアン・サンガラと一緒に映っている写真(写真4)などである。オランダ時代のものだろうか?ちなみに、プアン・サンガラは1881年生まれなので、その可能性はある(註3)。

註3 Salombe’, C. 1972. Orang Toraja dengan Ritusnya: In Memoriam Laso’ Rinding Puang Sangalla’. Ujung Pandang, p. 39.

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写真3 マカレ地域で勢力を誇ったプアン・タロンコ(プアン・ミナンガの父方の祖父)

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写真4 左からプアン・サンガラ、プアン・マカレ、
プアン・メンケンデック(プアン・ミナンガの夫)

 

8月8日

 朝、マカレの郵便局よりLIPIに報告書を送る。同時に、クンチョロニングラト先生に手紙を出す。慣習保存会代表 (Ketua Parandagan Adat)のキラさんと一緒にメンデテックの若いト・ミナアのソ・タトと会う。ソ・タトは「アガマ・ヒンドゥー・ダルマ」(註4)の会合で、バリとジャカルタに行っていたらしい。キラさんから、リンディンガロ郡ケペでリアンを開け遺体を包み直すマネネという儀礼があると聞き、急いで出かけようとしたが、リンディンガロ方面行きのミニバスはすでになくなっていた。トアルコの事務所に泊めてもらい、明日彼らの車に乗せてもらってケペに向かうことにする。

註4 トラジャの伝統宗教(アルック・ト・ドロ)はインドネシア政府の宗教分類では「アガマ・ヒンドゥー・ダルマ」(Agama Hindu Dharma ヒンドゥー教)に分類されている。

 

8月9日

 トアルコの車に乗せてもらって、トンドック・リタックへ。久しぶりにトービーとチャールズに会う。その後、ケペのマネネを見に行く(写真5)。5年に1度おこなわれるというが、前回は9年前だったらしい。(葬儀がおこなわれる)広場(ランテ)で供物を捧げる(ma'pakade)。ト・メバルン(遺体を布で包む役)がお金を集める(写真6)。リアン(壁龕墓)を開け(写真7)、遺体を取り出し(写真8)、(新しい布で)包み直す。その後、南北に別れてシセンバ(sisemba) ──一種の集団キックボクシング──による模擬戦(註5) がおこなわれる(写真9)。夜はトービーとチャールズのところに泊めてもらう。マンディ(水浴び)場は竹樋で水を引いてシャワーができるようになっている(さすが欧米人の住まい!)。彼らの助手のアグスという若者はとても素直で知的だ。

註5 トラジャの死者祭宴では、戦士が戦いのダンスを踊り、闘(水)牛、闘鶏などの模擬戦がおこなわれる。マネネは祖先祭だが、ここにも模擬戦の要素がみられる。

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写真5 泊まり込み調査ときの私のスタイル。左手に寝袋(山下淑美撮影)

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写真6 ト・メバルン(遺体を布で包む役)がお金を集める

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写真7 リアンを開け、遺体を取り出す

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写真8 リアンから取り出された遺体

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写真9 シセンバ。一種の集団キックボクシング

 

8月10日

 朝、アグスに連れられて、レンポ村ポトンへ。ここでもマネネをやっている。アグスの兄の家に荷物を置かせてもらい、祖先に供物を捧げる儀礼を見に行く(写真10)。このあたりのリアンは大きな岩に穴を掘ったもので(写真11)、ある岩には数えてみると23個のリアンが掘られていた。リアンは断崖に穴を穿って作る壁龕墓が一般的だが、このように大きな岩に掘られることもある。また、断崖や岩山が近くにないところでは小さな祠堂を作って遺体を収めることもある(写真12)。供物は1つではなく、複数のリアンに捧げる。夜はトンコナンが6つほど並んで建っている集落のトンコナンに泊めてもらう。家主は裕福な、村のリーダー層に属するキリスト教徒だった。サリ(居間)(註6)でみんなとごろ寝。トンドック・リタックはとても寒かったが、ここは、炉で火をたいているせいか、むしろ暑かった。

註6 トンコナンは北面し、内部空間は通常3つの部分に分かれる。北からボド(bo’do’)、サリ(sali)、スンブン(sumbung)と呼ばれる。スンブンは県南部ではイナン(inan)とも呼ばれ、家主の寝室で、子どもたちや来客はボドやサリで寝る。サリの東側には炉が切られ、台所(dapo’)になっている。

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写真10 祖先に供物を捧げる

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写真11 大きな岩に掘られたリアン。墓の下には供物が捧げられている

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写真12 このパタネ(祠堂)はキリスト教徒のものなのか十字架が見え、
墓の前にはトンコナンの形をした遺体運搬用台架が置かれている(サンガランギ郡)

 

8月11日

 朝6時に起きて、コーヒーを1杯飲んで、再度祖先に供物を捧げる儀礼を見に行く。高地の朝は霧に包まれている(写真13)。人びとはランテに集まり、水牛を供犠して、供物をリアンに捧げに行く。祖先に供物を捧げるという儀礼は県南部のマンターダ(manta’da)に相当する。ト・メバルンがお金を集め、ここでもシセンバが催される。見学中、どこかで財布をなくす。財布の中身はお金(5000ルピアくらい)とカギで、一応カンプン長に届けたが、出てこなかった。一文なしになったので、トンドック・リタックに戻り、帰りのバス代をトービーとチャールズから借りる(2000ルピア)。ミナンガに戻ると、ネ・ルケがマンターダをおこなっていた。ネ・ピアの葬儀が一段落ついたからだろうか。あるいは孫が生まれたからか。こうした祖先祭がトラジャの最も基本的な宗教儀礼だと思える。土着宗教を指すアルック・ト・ドロとは「先祖の教え」という意味だが、その先祖への感謝の儀礼がマンターダなのである。妻の友人の吉田絹枝さんから送られてきた衣類をネ・スレーマン、アンベ・ロモ、サンペなどに配る。

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写真13 朝霧と雲海

 

8月12日

 朝、フィールドノートの整理。石川栄吉先生と文部省に手紙を書く。自家製パン、蜂蜜、ミルクの昼食。マンディ。井戸の近くにある村長ハジの奥さん、ネ・ルケ、インド・セサの田んぼでは稲刈りがおこなわれている。ネ・スレーマンとネ・コピは台所と米倉の修理。夜、プアンと一緒に夕食。プアンは日本の食べ物は甘いと言う。そう言えば、すき焼きなどはたしかに甘い。トラジャの料理に砂糖を使うことはまずない。味付けは基本的に塩と唐辛子だ。プアンの食事は最近インド・ネゴが料理している。インド・ネゴの息子のソ・ネゴ(中学生くらい)から生活の基本動作に関するトラジャ語表現を聞く。

 

8月13日

 朝、マカレ郵便局。石川栄吉先生と文部省宛手紙を出す。続いて、民博展示用の米倉の出来具合を見にポン・ランガの作業場に行く。製作場所はランテパオ近郊のケテ・ケス近くのカンプンで、6人の若者たちが働いていた。ウキラン(彫り物)が50%くらいできたところか。ウキランの文様の種類と名称、色付け(黒、赤、黄、白)の素材、米倉の構造、各部分の名称などを聞く。ポン・ランガがウジュンパンダンに行くというので、本件を担当する三井商事の藤井さんに紹介状を書く。運動不足を解消しようと、バドミントンのセットを購入。

 

8月14日

 朝、メンケンデック郡の郡長アンベ・シアンさんがプアンのところに来る。そのついでに私にも会いに来たので、メンケンデック郡の歴史などについて尋ねる。タナ・トラジャ県の誕生は1957年。オランダ時代、郡 (kecamatan) はdistriktと呼ばれ、プアン・メンケンデックが郡長だった。郡役場は1959年まではミナンガにあったらしい。1959年にメバリに移転し、今年、ゲーテガンに移った。現在のティノリン村 (Desa Tinoring) は、インドネシア政府の行政村制度の導入により1969年に発足したもので、新しい行政枠組みとのこと。午後、マカレの市場で買い物。夕方、妻とバトミントン。インド・ネゴがプアンの料理人(to ma’nasu)役はつらいとこぼす。もっとも、何がつらいのかはよくわからない。

 

8月15日

 朝、マカレ郵便局。先日出した文部省宛の手紙(奨学金延長願いと10〜12月分奨学金支給請求書)に不備があり、作り直して再度投函。印鑑用の朱肉がなかったので、妻の口紅を借りて代用した(インドネシアではさすがに朱肉は売っていない)。昼前、カンプン・タンティをジャラン・ジャラン(jalan-jalan インドネシア語で「散歩」の意)。ネ・バックの新築中のトンコナンにサンガラから彫刻師 (to manura’)が来て文様を彫刻していた。昼食後、インド・セサのイトコ、ネ・タッピの娘の葬式があると聞き、出かける。貧乏なため家畜の供犠はおこなわれず、牧師代理としてアンベ・バラオがキリスト教式(カトリック)の祈祷を唱えた。遺体はブントゥ・タンティのリアンに入れられた。リアンに入る資格は、親族であればよいとのことだが、リアンを開ける際には豚の供犠が必要だったようだ。明日チェンケを植えるということで、アンベ・ナ・アティが来ていた。

 

8月16日

 午前中、アンベ・ナ・アティが800本のチェンケを植えるに当たり、成功を祈願してマンターダをおこなう。ネ・パレンゲ、プアン、ジャカルタから戻ってきたばかりのインド・ナ・ライも参加。ネ・パレンゲに話を聞こうと思ったが、耳が遠いのでうまくいかなかった。近くの田んぼでは稲刈り。明日8月17日はインドネシアの独立記念日で、今夜は前夜祭。ミナンガでは子どもたちのたいまつ行列がおこなわれた。

 

8月17日

 独立記念日。メバリ付近では、学校の生徒たちが行進したりして、いろいろな催しがあったらしい。昨夜からアンベ・パイビンのところに県北部のデンデ(リンディガロ郡)から呪医 (to ma’dampi) が来ているとのうわさ。その呪医がママ・ミニの家で治療をしていると聞き、昼食後、見学に出かける。石と薬草を使って治療する。奇妙な文字を書き、奇妙な言葉を喋る。やり方は彼の師匠から学んだらしい。虫の名前、草木の名前、鳥の名前など、よく知っている。風変わりな人だった(写真14)。夜、プアンと夕食。プアンの食事は、ウタン・パリア(utan paria ひょうたん?)、豆、唐辛子と水牛のミルク入りの竹筒ご飯、竹筒料理の豚肉。独立記念日だったが、ミナンガではとくに何もなし。

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写真14 村を巡回する呪医(to ma’dampi)

 

8月18日

 アンベ・パイビンのところに泊まっている呪医がやって来たので、デンデのアダット(風俗・習慣)などについて聞く。とてもよく知っている。その後、彼は昨日に続いてママ・ミニのところへ。午後、疲れを感じて、昼寝。風邪を引いたか、熱が少しある(37度3分)。

 

8月19日

 午前中、ケテ・ケス近くのポン・ランガのところに民博展示用の米倉の製作状況を見に行く(写真15)。彼はまだウジュンパンダンから戻ってきていなかったが、ウキランの文様などの写真を撮る。文様には名前が付いている(写真16)。23日にもう1度来ることにして、ミナンガに戻る。夕方、カンプン・タンティ内をジャラン・ジャラン。あちこちで稲刈りをやっている。明日からプアンの田んぼの稲刈りが始まるという。アンベ・パイビンのところに泊まっている呪医は、今日はバラ方面まで治療しに行ったらしい。あちこち巡回して治療しているようだ。プアンは、本当の呪医はあんな風に出歩いたりしないと言い、アンベ・ロモは、昨夜、呪医は何やら唱えてとてもうるさかった、あんなやつを信じることはできないと言っていた。いかがわしくはある。

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写真15 民博展示用米倉の製作

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写真16 ウキランの文様。Pa'erong(柩)と呼ばれるモチーフ

 

※次回は12/14(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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水牛飼いの男

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