トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第25回 私たちのマンターダ儀礼、プアンの戦争と平和、2度目の正月、妻の怪我、そして旅の終わり 1977.12.18〜1978.1.14

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12月18日

 マンターダ儀礼をとりおこなう。主催者は私たちだ。豚を供犠し、竹筒料理を作る。妻はトラジャ服を着て、昨日プアンからもらった首飾り(manik kata)をつけ、クーリン(料理壺)からご飯をよそう(写真1)。耳が遠くなったト・ミナア祭司ネ・カダッケが往時を偲ばせるような素晴らしい声で祈りを捧げた。肝占いではlimbong=「大吉」と出たようだ。人びとが集まり、共食し、「賑やかな」(marua) 祭りになる。個人を超えた共同体がそこにある。県知事夫妻、インド・ナ・ライ(プアンの娘)、前村長ハジ、プアン・ガウレンバン、新村長ネ・コマンダン、ベルギー人の神父など招待した人は皆来てくれた。儀礼は、見るよりする方が面白い。午後、激しい雨。人びとは「ウォイ・サッケ」(woi sakke=清らかな水)だという。

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写真1 マンターダ儀礼でトラジャ服を着てご飯をよそう妻

 

12月19日

 祭りが終わって、虚脱感を覚える。朝、マブギの歌詞のタイプ打ち。『民族学研究』に投稿する「トラジャ・フィールド・ノオト」の原稿を書く。昼寝。D. H. ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』を読む。トラジャにもチャタレー夫人のような問題は存在するのだろうか。そもそも私はトラジャでどのような問題に取り組んでいるのか。調査は終わろうとしているのにわからなくなる。夕食時、プアンからトラジャの戦争について話を聞く。プアン・タロンコ(マカレ)とプアン・ランダナン(メンケンデック)の戦争が記憶に残っているという。プアンの父プアン・アンディロロはプアン・タロンコの息子であり、プアン・メンケンデックはプアン・ランダナンの息子だ。ということは、プアンとプアン・メンケンデックの結婚はマカレとメンケンデックの和平の象徴だったのだ。彼女がマカレとメンケンデックを行ったり来たりしているのは、そのような歴史の反映なのだろうか。そんなことを調査が終わろうとしている今頃になって知る。というか、調査とは終わりのないプロセスなのである。

 

12月20日

 ネ・スレーマンがタンポ(ゲーテガンの南にある集落)の葬式を見に行こうと誘いに来る。あまり気が進まなかったが、ミナンガの裏山を越したところだというので、山の向こう側がどうなっているのか見たくなって一緒に出かける。ゲーテガンから入って山を越えると、そこがタンポだった。ネ・コマンダンが葬儀の主催者の家族だったせいかミナンガからも多くの人が来ていた。帰りはナニ(ハジの息子ランマンの奥さん)のグループと一緒になった。夜、フィールドノートの整理。

 

12月21日

 家で仕事。「トラジャ・フィールド・ノオト」の清書に取りかかる。マンターダ儀礼終了後の虚脱感がまだ続いている。『雨月物語』を読む。

 

12月22日

 「トラジャ・フィールド・ノオト」の清書の続き。清書していると、いよいよトラジャ調査は終わりという気持ちになる。新年が近いせいか、どこからともなく爆竹の音が聞こえる。

 

12月23日

 「トラジャ・フィールド・ノオト」の清書の続き。今日清書した部分は少し長すぎ、短くする必要がある。プアンの水田ミナンガの次期耕作者はネ・コピ、ネ・スレーマンはじめ7人と決まる。苗代用の田んぼで作業が始まる。トラジャを去るにあたって私たちが置いていく持ち物をめぐって妻とプアンが口論。

 

12月24日

 「トラジャ・フィールド・ノオト」の清書は8割方終了。夕方、トラジャ語の教師フランツが民話のノートを持って来る。彼は私のラジオが欲しいらしい。ただであげるのは他の村人に悪いから1万ルピアで売ってもよい、と答える。今夜はトラジャで2度目のクリスマスイブ。シャンペンを飲んで、妻の手作りのケーキを食べた。夕食後、ベルギー人神父がいるカトリック教会のクリスマスを見に行く(写真2)。お祈りのあと、余興があった。

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写真2 ミナンガ・カトリック教会のクリスマス。神父はベルギー人

 

12月25日

 丸1日かかけて「トラジャ・フィールド・ノオト」の清書を完了。400字換算で約60枚。「研究ノート」としてはちょっと長すぎたかもしれない。フランツが来て、「きよしこの夜」のトラジャ語の歌詞を教えてくれる。ナニが金の首飾りを売りたいと持ちかけてくる。値段は小さい方が2万ルピアくらい。大きい方は7万ルピアとのこと。妻は買う気になっているようだ。

 

12月26日

 午前中、「トラジャ・フィールド・ノオト」の点検。午後、持って帰る本の整理。夜、トラジャ関連の本や論文の文献リスト作り。

 

12月27日

 朝、妻はメバリの市場へ出かける。いつものようにダンケ(水牛の乳で作ったチーズ)を買ってくる。私はマカレの郵便局へ行き、「トラジャ・フィールド・ノオト」の原稿を都立大の石川栄吉先生へ送る。また、京大東南アジア研究センター・ジャカルタ事務所の前田(立本)成文さんに手紙を出す。妻のお母さんからの手紙を受け取る。「吉田の爺ちゃん」(妻の母方の祖父)の訃報だった。

 

12月28日

 午前中、トラジャ関連文献のタイプ打ち。午後、パンロレアンの葬式にネ・スレーマンと出かけることになっていたが、今日はとくに見るべきものもないので後日行くことにする。その代わりにランテパオに行こうとも思ったが、午後になってしまい、こちらも見送る。実に中途半端な1日になった。夜、私たちの持ち物のうち何を置いていくかについてプアンと話す。

 

12月29日

 ランテパオへ。行く途中、撮り残した風景などの写真を撮る。ランテパオでは、おみやげにウキラン(彫り物)文様(写真3)、セコ・マンディ布(写真4)などを買う。トアルコの事務所に寄って、トービーとチャールズに頼んでウジュンパンダンで現像してもらった写真を受け取る。また、ウジュンパンダンへの車のことなどを相談。駐在員の奥村さんとは元旦にマカレで会うことにする。帰路、ミナンガまで行くミニバスがなくなり、K7キロピトゥ(マカレから7キロの地点)から歩いて帰る。プアンはマカレに戻る。

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写真3 ウキラン(彫り物)文様のおみやげ

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写真4 セコ・マンディ。ルウ県セコで作られた布。トラジャで珍重されている

 

12月30日

 パンロレアンの葬儀にネ・スレーマンなどミナンガの村人と一緒に行く。今日は「マントゥヌ」=供犠の日で、葬儀の主催者であるネ・シオンから弔問客として扱われた。弔問客として扱われるのははじめての経験だ。トラジャ滞在も終わろうとする頃になってようやく私もこの村の一員になれたのかもしれない。夕方6時頃家に帰る。インド・セサが、私たちが置いていく持ち物の物色に来る。そのあと、インド・ルスニ、インド・ロモ、インド・ネゴなども来る。親しかった人にかぎり、記念としてあげるか安く売ろうと思う。

 

12月31日

 大晦日。台所から臼を取り出し、村人──インド・ルスニ、インド・ジェニ、インド・ネゴ、ルティジャ、ソ・ネゴ、ルケなど──に手伝ってもらって、餅をつく(写真5)。少し粒々が残ってしまったが、緑豆の餡を入れて、つきたての餅を食べてみるとまずまずの出来だった。トラジャに置いていく持ち物は、すべて引き取り手が決まる。夜、プロテスタント教会のクリスマス兼新年の集まりを覗いてみる。そのあと、ラジオで昨年聴けなかったNHK紅白歌合戦を聴く。

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写真5  トラジャで2度目の正月の餅つき

 

1978年1月1日

 トラジャで迎える2度目の正月。昨年同様、朝から村人たちが年始回りにやって来る。ルケに手伝ってもらって、コーヒーと昨日ついた餅を出す。午前中ずっと客が続き、奥村さんと元旦にマカレで会う約束はキャンセル。一休みして、写真や録音テープの整理。夕方、ハジとネ・コマンダンが挨拶に来る。

 

1月2日

 午前中、ソ・ネゴ、ネ・コピなど近所の村人が年始回りに来る。午後、県知事とインド・ナ・ライに年始の挨拶にマカレに行く予定でいたが、妻が怪我をする事故が発生。マンディ(水浴び)に行く途中、足を滑らせ、つかんだ竹垣の尖った切り口で左薬指を切ってしまったのだ。骨が見えるほどのかなり深い傷だった。大通りに出るとミニバスがすぐ来たので、間を置かずマカレのプンバントゥ病院に駆け込むことができた。が、新年で担当医は不在だった。たまたま知り合いの女医が通りかかり、事情を説明すると何か指示してくれた。すると用務員のような人が現れて、「私が(傷口を)縫う」と言う。少し躊躇したが、縫わなければ傷口は開いたままだというのでお願いすることにした。糸と針を熱湯消毒して、5針縫った。化膿止めのペニシリンを打ち、痛み止めの薬をもらって、「手術」は終わった。インド・ナ・ライのところに行き、休ませてもらう。彼女はレンボンでの洗礼儀礼に行って帰ったばかりで、年始回りの客が大勢いて家の中はごった返していた。妻の傷が悪化したときのことを考え、一晩泊めてもらうことにした。

 

1月3日

 妻はとくに傷の痛みもないようで、朝食後、ミナンガに帰る。プアンはランダの葬式に行くとのことで、ミナンガに来るのは8日過ぎになるという。ミナンガに戻ると、猫のカンカンが家から出て来て私たちを迎えてくれた。正月といっても何もすることもなく、手が使えない妻の代わりに洗濯と炊事をする。

 

1月4日

 朝、井戸で洗濯。その後、マカレの郵便局に行き、日本人会代表で日本鋼管/セルマニ・コーポレーションの園田さんに手紙を出し、ウジュンパンダンでの宿泊をお願いする。園田さんは、私たちのような貧乏学生に情けをかけてくれ、ウジュンパンダンに来たときは是非どうぞと言ってくれていた。郵便局のあとは、ランダへ行き、ネ・レバンの死者祭宴での水牛と豚の供犠のリストの追加分を写す。これでネ・レバンの死者祭宴関連の資料集めは終了だ。ブンギンとロンダ付近からサダン川の写真を撮る。夕方、マカレで1時間ほどミニバスを待って、ミナンガに戻る。夕食を作り、食後は皿を洗う。そのあと、マルティニ・ロッソを一口飲む。とてもいい気分になる。

 

1月5日

 朝、コーヒーを飲んだあと、洗濯。その後、妻の傷の状態を診てもらうためマカレへ行く。「手術」を受けたプンバントゥ病院には医師がいなかったので、パク病院で診てもらう。経過は良好で、2〜4日後に抜糸とのこと。市場で若干買い物。ミナンガに戻り、昼寝。夜、LIPI (インドネシア科学院)への最後の報告書をタイプする。フランツがラジオ代金1万ルピアを持って来る。一晩貸してくれというので貸す。

 

1月6日

 朝、洗濯。ネ・レバンの死者祭宴のプロセスの一覧表を作る。夕方、フランツがラジオを返しに来て、夕食を共にする。夜、再度ネ・レバンの死者祭宴のプロセスの一覧表作り。

 

1月7日

 朝、マカレのパク病院で妻の指の傷口の抜糸。看護師がハサミとピンセットで、「サトゥ、ドゥア、ティガ」(インドネシア語で1、2、3)と数えながら糸を抜いた。簡単なものだ。順番を待っている間、女性の自殺者が運ばれて来た。刃物で腹を刺したらしい。まるで切腹だ。トラジャではかなりの自殺者が出るという。こんなところでも自殺するほどの悩みがあるのだろうか。インド・ナ・ライ宅に寄ったら、これからメンデテックの葬式に出かけるところだった。パル(中部スラウェシ)から来た親戚と一緒に行くという。彼らは相変わらずペスタ(儀礼)で忙しい。水牛肉をおみやげにもらう。

 

1月8日

 朝、井戸で洗濯。ついでにマンディ。県知事夫妻に別れの挨拶に行く。日本から持って来たユカタ、帯、下駄を記念品(tanda mata)として渡す。日曜日で休日だったせいか、県知事もいろいろと話してくれた。3月にドイツに行くという。おみやげに魚の卵と鯉の蒸し焼きをもらう。ミナンガに戻ると、トアルコの相馬さんがステーキ用の牛肉(水牛肉ではなく!)とマンゴスティン、それに新聞を持って来てくれた。ブギス人の運転手がネ・スレーマンと同席するのをいやがり、独り車に戻る。ブギス人とトラジャ人の間には微妙な関係があるようだ。もらった牛肉を唐揚げにして夕食に食べた。とても美味しかった。スライド写真や書類を整理。

 

1月9日

 朝、ゲーテガンの郡役場で、降雨量のデータを写す。山地のせいか雨量は地域によりかなりの偏差がある。そのあと、以前から気になっていたマカレの料理壺(クーリン)作りの現場を見に行く。土をこねるところは見ることができなかったが、乾燥させ防水用の上薬を塗っているところを見ることができた(写真6)。クーリン作りは女性の仕事で、女系で伝承されるらしい。以前プアンがクーリンは女性器(子宮)のシンボルだと言っていたことを思い出した。

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写真6 料理壺(クーリン)作り

 

1月10日

 朝、洗濯。そのあと、ランダナンへ行き、ガウレンバンに帰国の挨拶に行く。が、彼はウジュンパンダンに行っていて留守だった。奥さんのプアン・シマにお礼のビスケット1缶に手紙を添えて渡す。ミナンガに戻って、荷物の整理。ランプの掃除に時間がかかり、8時頃夕食。写真の整理。少し風邪気味。

 

1月11日

 ランテパオへ行き、銀行(BRI)で口座を解約し、お金をおろす。利子も付いて、計71万9180ルピア。航空運賃と1〜3月分の奨学金はジャカルタの東京銀行で受け取ることになる。続いて、ランテパオの郡役場に行き、これまで見ていなかった統計を写す。レストラン・ラフマットで昼食をとったあと、トアルコの事務所に相馬さんを訪ねる。ウジュンパンダン行きの車に同乗させてもらうことになっていて、出発は14日と決まる。おみやげにトンコナンのミニチュアを買う(写真7, 8)。帰路、マカレの市場で竹製の背負い籠を買う(写真9)。トラジャの工芸品のなかではこれが最高だと思う。夕方、プアンがインド・ナ・ライとソ・リンブン(インド・ナ・ライの前夫との息子)ら孫たちと一緒にミナンガに戻って来る。子どもたちには小さな贈り物。ソ・リンブンには白のスーツを4000ルピアで売る。インド・ナ・ライはミナンガに泊まる。

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写真7 トンコナンの軒先のおみやげ屋(ケテ・ケス)

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写真8 おみやげ用のトンコナンのミニチュア

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写真9 背負い籠

 

1月12日

 朝起きて、朝食、洗濯。そのあと、マカレの警察署に行き、14日にトラジャを離れることを伝える。挨拶のつもりで県庁に寄ったら、トラジャを去るにあたっては南スラウェシ州知事宛の手紙が必要で、県知事、警察、軍のサインが要るという。この期に及んでまたぞろインドネシアの役所手続きが始まったと思ってうんざりする。2時間以上待たされて、明日また来いという。こんなところに2度と来るものかと腹を立てながら、ミナンガに戻る。アンベ・ナ・アティ(インド・ナ・ライの夫)が来ていた。インド・ナ・ライは今日も泊まっていくようだ。

 

1月13日

 退去許可の手紙をもらうためにマカレへ。しかし、K4キロアパ(マカレから4キロの地点)で岩が道路に落ち、1人死亡、1戸全壊という事故があり、一時通行止めとなる。県庁の役人は事故対応に追われ、州知事宛の書類を受け取ったのは午後1時過ぎだった。そのあと、県知事に挨拶しようと思ったが、昼寝中ということで会えず。置き手紙をして帰る。ミナンガに戻り、明日の旅立ちの準備。終わったのは夜中の12時過ぎ。別れがつらいのは猫のカンカン。妻がベッドで涙を流す。連れて帰りたいが、旅行中の世話は不可能だし、東京の鉄筋コンクリートの住宅はトラジャで解放的に育ったカンカンには居心地が悪いだろう。人びととの別れより猫との別れがつらいとは、思ってもいなかった離別のストーリーだ。

 

1月14日

 朝早く村人たちが別れの挨拶にきたので、それぞれに約束の記念品を渡し、荷物を大通り脇のハジの家まで運んでもらう。切なかったのは、やはり愛猫のカンカン(写真10)。私たちの出発を感じ取ってか、カンカンも心ここにあらずという感じだった。私たちが家を出ると、ウサギのように跳ねながら後を追って来た。ルケがなんとか引き止めてくれた。8時過ぎ、相馬さんが車で迎えに来て、いよいよトラジャとのお別れ。車中、妻は泣き、私も涙が出て来た。人びとに対してはそうでもなかったが、猫のカンカンとトラジャの山々に対しては愛惜の情を禁じ得なかった。私たちを乗せた車は夕方4時半頃、ウジュンパンダンに着いた。今回はいつもの津田さん宅ではなく、園田さんのお宅にお世話になる。もっとも、園田さん自身は帰国中で不在だったが、心のこもった置き手紙があった。これから1週間ばかりここで帰国の準備をすることになる。ちなみに、2人のお手伝いさんはともにメンケンデック郡の出身だった。夜、フェテラン通りの焼鳥屋で相馬さんから夕食をご馳走になった。こうして、私たちのトラジャ調査の旅は終わった。

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写真10  愛猫カンカンとの別れ。カンカンも緊張している

 

※次回(最終回)は3/22日(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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村の日の出

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