トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第1回 トラジャ入り 1976.9.2〜9.9

はじめに

 今から半世紀近く前のことだが、1976年9月から78年1月にかけてインドネシア・スラウェシ島のトラジャでフィールドワークをおこなった。当時、私は大学院の社会人類学専攻博士課程の学生で、文部省のアジア派遣留学生としてインドネシアに留学した。1976年4月8日、シンガポール経由でジャカルタ入りして、3ヶ月間インドネシア大学でインドネシア語の集中講義を受け、8月後半、約2週間ジャワ、バリを旅行した後、9月2日にトラジャに着いた。それから1978年1月14日に離れるまでの1年4ヶ月間をトラジャで過ごした。

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地図1 東南アジア島嶼部

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地図2 スラウェシ島(州区分は当時)

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地図3 タナ・トラジャ県(当時)

 10年後、そのときのフィールド調査の成果を『死の人類学』(内堀基光と共著、1986年)や『儀礼の政治学──インドネシア・トラジャの動態的民族誌』(単著、1988年)にまとめて弘文堂から出版した。とくに後者は民族学振興会(当時)の「澁澤賞」を受賞し(第20回、1989年)、私の代表作の1つとなった。その中心的テーマは、トラジャの伝統的宗教(アルック・ト・ドロ)に基づく儀礼の記述と分析であった。昨年(2020年)11月、ある研究会に招待され、トラジャの伝統的な葬墓文化について尋ねられたことがきっかけで、当時の日記やフィールドノートを読み返し始めた。忘れていたことがいろいろと思い出されて、過去が蘇ってきた。

 日記にはトラジャ滞在中、その日起こったこと、気づいたことをほぼ毎日つけた。当時はパソコンなどなく、手書きである。日記はプライベートなものだが、同時に人類学者がどのようにしてフィールドワークをおこなったかということの記録でもある。その意味では、これは1980年代以降注目されるようになった「文化を書くこと」についての自省的な記録、あるいはこれからフィールドワークをおこなう後輩たちへのメッセージとしても役立つかもしれないと思い、手書きの日記をデジタル化して、『死の人類学』や『儀礼の政治学』の舞台裏としてこの弘文堂のブログサイトに公開することにした。日記の全体は、1976年9月2日から1978年1月14日まで1年4ヶ月分の分量があるので、適当な回に分けて、連載する。もっとも、日記の表現のわかりにくい部分やセンシティブな部分は、若干の編集・校正を加えていることをお断りしておく。また、ここで掲載する写真は断らないかぎりすべて私自身の撮影によるものである。

 連載全体のタイトルは大森貝塚を発見したE. S. モースの日記『日本その日その日』にあやかってつけた。タイトルデザインとしては私の高校時代の友人堀研が描いたトラジャのスケッチを使わせていただいた。1992年に一緒にトラジャを旅行したときに描いた作品で、旅の記念に彼からいただいたものである。

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堀研・画


  連載回のはじめには、その回の主たる話題を掲げてタイトルとした。なお、1998年のスハルト政権崩壊後の「地方分権化」のなかで、2008年にはランテパオを中心とした北トラジャ県とマカレを中心としたタナ・トラジャ県に分かれ、郡や村などの行政単位や名称も変更された。しかし、ここでは、原則として1976/78年当時の行政単位・名称で記述する。

 

***

 

1976年

9月2日

 朝7時前、妻とともに、ウジュンパンダン(現マッカサル)から、トラジャ行きのバスに乗る(写真1)。荷物が多かったので(トランク4個、リュックサック、手荷物3個)バスチケット代に加えて追加料金を払う。トラジャまでは約300km、約10時間の旅程である。パレパレまでは海岸沿いの平坦な道のりを約3時間。パレパレを過ぎて、徐々に山間部に入り、エンレカンを過ぎたあたりから山は峡谷的になり、幻想的な石灰岩質の高原風景が開けてくる(写真2)。午後3時過ぎにバスは県南部の県庁所在地マカレを通過し、サダン川沿いを走って(写真3)、4時近くには終着の県北部の中心地ランテパオに着いた。さっそく、宿舎探し。ジャカルタのプリヤンティさんが紹介してくれたアングィさんを訪ねると、トラジャ教会(写真4)に関連した研修所の施設を紹介してくれた。無事トラジャ着ということで、妻と近くの中華レストランで、アスパラガス・スープと鶏の唐揚げの「豪華な」夕食を食べる。町としてはマカレよりランテパオの方が大きく、店も多そうだ。もっとも、都会というイメージからはほど遠い田舎町である。

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写真1 ウジュンパンダンとトラジャを往復するバス。大型からバンまでいろいろある

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写真2 トラジャへの道。幻想的な石灰岩質の高原風景が拡がる

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写真3 サダン川。左手にトンコナン(家)とアラン(米倉)が見える

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写真4 ランテパオのトラジャ教会

 

9月3日

 朝6時起床。朝食を終え、さっそく借家について相談する。研修所施設の家の一部(2部屋と台所、浴場)を2万5000ルピア(1976年当時1USドル=約300円=約400ルピア。ちなみにわたしのアジア諸国派遣留学生の給付は月額8万円。ただし、1978年までに円高が進み、1USドル=200円を割った)で貸してくれるという。電気も水道もあり、条件は悪くない。しかし、人びとの生活の場から少し離れているという点が気がかりで、もう少し探してみようと考え直した。今日は金曜日で役場は午前中のみだから、ブパティ(bupati 県知事)には明日会いに行けというので、近くのロンダのリアン(崖葬墓)を見て回った。入り口には古い船型木棺(erong)が置かれている(写真5)。観光客が来るのか子どもたちが懐中電灯をもって洞窟内を案内している。子どもたちによると貴族や富者の墓は崖の上のほうにあるという。黒い棺がキリスト教徒、白木の棺が「アニミスト」のものだともいう。ということは、キリスト教徒も、伝統宗教信奉者も同じ墓所に葬られるということか。

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写真5 ロンダ崖葬墓。古い船型木棺(erong)が見える

 

9月4日

 朝、施設の管理者ドゥマさんの車に乗せてもらって、マカレの県庁と警察に報告に行く。県知事はセセアン郡に出かけていて留守だったが、副知事がとても歓迎的だったので嬉しかった。また、県知事は6日からボンガカラデン郡に行くというので、私たちも是非と、同行させてもらうことにした。ボンガカラデンはタナ・トラジャ県の西部に位置し、県北部や県南部と社会体制が異なり、いつか調査してみたい地域である。午後、再び家探し。ランテパオのトラジャ教会所有の宿舎に移ることにした。きれいな家だが、教会付属の神学校の3人の講師たちと共同生活になる。個室の寝室とスタディルームが使える。ランテパオの町中でもあり、家賃も1万ルピアと安い。

 

9月5日

 教会宿舎に移る。ドゥマさんがこれまでの宿泊費・食費・交通費として1万9400ルピア要求してきた。これは相場以上に高い額だ。しかも本人はウジュンパンダンに行っていて、キチンと説明することもせず、人づてにカネを要求するというやり方に頭にくる。あとで話をつけることにして、とりあえずこの要求を拒否する。

 

9月6〜9日

 県知事の一行に加わってボンガカラデンに行く。自動車の通れる道はなく、約50人の「ご一行さま」はクーリーを連れて、徒歩で、サダン川沿いに南下して行く。ちょっとした探検気分だ。県知事のJ. K. アンディロロとその奥さんはこれまで出会った人のなかでは群を抜いてさわやかな人たちだ(写真6, 7)。ランテパオで会った人たちのようにこざかしいところがないのがいい。1日目(9月6日)はパレサン村(サルプティ郡)。その村で知事は新しい小学校の開校・お披露目のために一席ぶった。聴衆を大いに笑わせる。トラジャ語なので内容はよくわからないが、ジョークが好きな人のようである。午後は、皆は小学校の教室にしつらえられた場所で昼寝だったが、私たちは知事の客ということで民家の一室を与えられた。昼寝後、家主から若干話を聞く。お礼に日本からもってきた100円ライターを渡すと大喜びだった。夕方、近くの川でマンディ(水浴び)をする。はじめての経験だ。2日目(9月7日)は朝3時に起き、朝の涼しいうちにレソまで歩く。レソの小学校で子どもたちの吹奏楽の歓迎を受ける。正午近くにボンガカラデン郡庁のあるレオンに着く。水牛の角のかぶり物をつけた男たちの歓迎の踊りが披露され、慌ててカメラのシャッターを切った(写真8)。修士論文で研究したインド・アッサム地方のナガ族のかぶり物に似ている。昼食にパピヨン (pa’piong) と呼ばれる豚肉の竹筒料理をご馳走になり、午後は知事の家族と一緒に民家で昼寝。夜はいくつかの踊りが披露されたが、いずれも単調だった。3日目(9月8日)、知事たちが会議している間、村の境界の川(マスプ川)まで歩いてみる。小高い丘の上に集落があり、下っていくと川があり、そこが村の境界になっている。午後、この村唯一の店でジュースを飲みながら若干聞き取りをする。宿に戻って、昼寝。水浴。4日目(9月9日)は午前3時起床。徒歩でマカレに戻った。ランテパオに着いたのは、午後1時。疲労困憊して、宿舎のベッドにもぐり込む。

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写真6 タナ・トラジャ県知事J. K. アンディロロ(右から2人目)

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写真7 J. K. アンディロロ夫人

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写真8 歓迎の踊り(ボンガカラデン郡)

 

※次回は4/20(火)更新予定です。

 

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