トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第12回 総選挙、調査の憂鬱再び、カメラ紛失、マカレ生活の終了 1977.4.20〜5.14

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4月20日

 慣習保存会 (Parandagan Adat) 代表のキラさんとランテパオの葬式を見にいく。供犠した水牛の肉の分配の方法をめぐって葬儀執行者の間で対立があり、ト・パレンゲ(註1)が怒るという場面があった。怒りのポーズがきわめて様式化されていて──片足をあげて、奇声を発する戦闘のポーズ──とても興味深かった。県南部に比べて、県北部の社会関係はよりダイナミックにみえる。南部に比べて階層化の度合いが低く、より「民主的」な政治体制を持っているからだろうか。葬儀中、キラさんは慣習保存会代表として演説した。

註1 ト・パレンゲは県南部ではトンコナンの代表者だが、県北部では当該地域の首長を意味する。

 

4月21日

 午前中、裁判所。水田の質入れ(gadai )をめぐる訴訟記録の続きを閲覧する。マカレの市場に「新秩序とは開発である」(Orde Baru Adalah Pembangunan)という垂れ幕が掲げられ、見本市のようなものが開かれている。彼らの望む開発とは何だろうか。欧米や日本のように工業化することか。夕方、リクからトラジャ語のレッスンを受けていると、トアルコ(日本のキーコーヒーが1976年にインドネシアで設立した合弁会社)の奥村さんがウジュンパンダンからの帰路立ち寄ってくれ、コトゥ(マカレの南約60キロに位置するエンレカン県の町)のパパイヤをお土産にいただく。オムはロスメン・インドラの給料が安く(月1万ルピア)、賄いの食事もよくないと不満げで、市場のワルン(屋台)に行ってヤシ酒を竹筒2本飲んできたとのこと。インドネシア人も憂さ晴らしに酒を飲むということを知る。ちなみにオムはキリスト教徒なので、アルコールは御法度ではない。

 

4月22日

 裁判所からの帰り道、ゴルカル(Golokar =Golongan Karya 「職能集団」。政府与党)が小中学生を動員して選挙運動を展開していた。鼓笛隊を先頭に、自転車、バイク(ヤマハやホンダ)、あるいはオンボロトラックの荷台に乗って、行進する(写真1)。選挙キャンペーンは前回見たときもそうだったが、まるでお祭り騒ぎだ(註2)。今回の総選挙は政府系、キリスト教系、イスラム系の3つの党の争いだが、ランテパオではキリスト教系のPDI (Partai Demokrat Indonesia インドネシア民主党)が強いようだ。ただし、タナ・トラジャ県全体では政府与党のゴルカルが圧倒的に強い。午後から夜にかけて雨。

註2 第10回3月14日写真6参照。

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写真1 選挙キャンペーンに動員される生徒たち

 

4月23日

 朝、妻の友人の矢島さんから船便の本が届く。フランソワ・ラブレー『ガルガンチュア物語』続編など。午前中、裁判所。午後、水田の所有関係を調べるためにミナンガに行く。トンコナン・サニックのト・パレンゲ、インド・バクを訪ねる。インドネシア語ができないのでトラジャ語で聞くが、慣習のことなどはあまり知らなかった。ネ・ピアは先日狂犬に噛まれたらしい。傷の手当てをしてやって(抗生物質入りの軟膏を塗る)、マカレに戻る。昨日マカレで与党ゴルカルとキリスト教系のPDIとの小競り合いがあったようだ。

 

4月24日

 トアルコの駐在員とサンガランギ郡パダマランのコーヒー農園予定地を見にいく。日本に輸出する「幻のトラジャ・コーヒー」はここで作られることになる(写真2、3)。トンバンカルア(ランテパオから南東に約8キロ)までは車で行けるが、そこから農園予定地までは馬または徒歩。造園工事はまだ始まっておらず、予定地は柵がめぐらされ、中には粗末な仮の事務所が建てられ、木製の門扉から出入りする。まるで砦のようだった。責任者は清野さん。セセアン郡トンドック・リタックのコーヒー精選加工工場は奥村さんと杉山さんが担当、相馬さんは取締役とのこと。午後3時頃ランテパオに戻り、レストラン・ラフマットでビールを飲む。8時過ぎ、車でマカレまで送ってもらう。今日は選挙キャンペーンの最終日でランテパオは大賑わいだった(写真4)。

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写真2 コーヒーの花

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写真3 コーヒーの実

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写真4 選挙の熱狂(ランテパオ)

 

4月25日

 トアルコの相馬さんたちが県西部のビトゥアン(サルプティ郡)に行くというので同行させてもらう。ビトゥアンはマカレの北西35キロ。トヨタのランドクルーザーでレンボンよりビトゥアン川に沿って上流に向かって進む。しかしあと5キロというところで、土砂くずれのため道がふさがれて進むことができず、マカレに引き返す結果となった。マカレの市場のワルン(屋台)で一緒に昼食をとって別れる。夕方、ロスメン・インドラにランダ出身のパ・レバンがひょっこり訪ねきた。パロポ(ルウ県)に転勤になったと聞いていたが、今回は8月におこなう予定の叔父(ネ・レバン)の2次葬(註3)の相談のためにトラジャに帰ってきたということだ。

註3 トラジャの大きな死者儀礼は2度に分けておこなわれる。ネ・レバンの1次葬は1976年10月25日から29日にかけておこなわれた。第3回10月26~29日参照。

 

4月26日

 朝、妻が喉のリンパ腺が腫れているというので、病院に診てもらいにいく。別にたいしたことではないらしく、抗生剤を1日6錠、5日間飲めば治るとのこと。抗生剤の副作用が気になるが、服用してみることにする。午後、ネ・ルケが米を持ってきてくれる。ついでに彼女の身の上話を聞く。彼女はもともとプアンのカウナン(「奴隷」)ではなく、7年前、親が死んだため、ルケと一緒にプアンのところに身を寄せ、料理人(to ma’nasu) になったのだという。これはハジのところに来たゲルに似て(註4)、富者のもとに寄宿してカウナンになることを選ぶというケースだ。彼女にお小遣いとして500ルピアと衣類を1枚、葉たばこ、お菓子などを渡す。

註4 第11回4月15日参照。

 

4月27日

 変わりばえのない1日だった。トアルコの相馬さんが置いていってくれた日本の週刊誌を読む。セックス記事ばかりでつまらない。

 

4月28日

 昨夜、妻が欲求不満。こちらもトラジャで欲求不満がたまっているが、その気になれぬ。気持ちがすっきりしないときのセックスはよくない。調査の方もいろいろ手がけているが、どれも中途半端で、達成感がない。憂さ晴らしをしたいが、何もする気になれない。もう少し遊んだ方がいいと思うが、私はマジメ人間なので遊びというものを知らない。妻を遊び相手に何か憂さ晴らしができないだろうか。

 

4月29日

 憂鬱気分が続いている。フィールドのつまらなさ。ここには話して楽しい人間がいない。暑いとか寒いとかそんな会話しかない。生活様式のベースが違うので、了解のベースというものがないのだ。1970年代の日本からやって来た者には、ここの人びとの粗野さと愚かさは耐えがたい。ウィスキー(ホワイトホース)を2200ルピアで買う。久しぶりに喉を潤す。スコッチは快感だ。

 

4月30日

 インド・ナ・ライのところにコーヒーを挽いてもらいにいく。妻の買い物籠にゼンマイ(sayur paku) が入っているのをみて、居合わせたプアンがそんなものを食べるのかと聞く。おいしいよと妻が答えると、トラジャの王族はゼンマイを食べるのはタブー(pemali)なのだという。このほかにも白い水牛、白いニワトリ、豚の頭、犬の肉、うなぎを食べてはいけないらしい。階層と食の関係。カースト研究では基本的なテーマだ。宿舎に戻って、リクとトラジャ語のレッスンの後、色について聞いてみる。トラジャ語にはそもそも色に当たる語がないということが分かった。インドネシア語では色のことをwarnaというが、トラジャ語ではそれに当たる言葉がないのだ。「何色か」と聞くには「何の形か」(apa rupanna?)と聞かなければならない。rupaには「見える」という意味もあるので、「どう見えるか」という問いでもある。白 (mabusa)、黒 (malotong)、赤 (mararang)、黄 (mariri)が基本的な色で、トンコナンの彫り物にはこの4色が使われている。緑はmaidoだがインドネシア語(マレー語)由来だと思われ(ido=hijau)、青に当たる語はない。「では、青空は?」と聞くと、空の色は刻々と変わるので答えられないとオムがいう。葉っぱの色だって、緑色の葉は黄色になりやがて茶色になりしまいには黒くなるなどと理屈をこねる。フローレス人(オムはフローレス出身)は哲学者である。

 

5月1日

 昨夜遅くパ・レバンがパロポからやってきて、ロスメン・インドラに泊まった。マカレには親戚もいるはずなのだが、何故ここに泊まったのか理由はよくわからない。ことによると出張費が出ているのかもしれない。彼はネ・レバンの葬儀委員長を務めているが、「伝統」(慣習に従うと盛大な葬儀をしなければならない)と「近代」(盛大な葬儀など無駄なことだ)のはざまで頭が痛いらしい。彼自身は葬儀で供犠する水牛を買う金があるくらいならメルセデス・ベンツを買うという考えの持ち主だ。総選挙明けには2次葬の準備(祭宴小屋作りなど)を始めることになるという。昼近く、久しぶりにランダナンに行く。プアン・ガウレンバンは明日の選挙の準備に出かけていたので、タイプ打ちを妻に頼んで、彼の家族と雑談をしながら、鶏の種類などを聞く。色や形から20種類以上の鶏が識別されている。水牛も色、大きさ、角の形などから細かく識別されている。夜、パ・レバンに昨年10月のネ・レバンの1次葬のとき撮った写真を見せる。

 

5月2日

 総選挙投票日。ミニバスも止まり、市場も休みで、実に静かだった。普段は結構騒音があるのだと気づかされる。午前中、エリック・クリスタルの博士論文(註5)を読んで過ごし、昼少し前に近くの第18投票所を覗いてみる、投票の方法は、まず選挙登録所で名前を告げ、投票用紙3枚(黄色=中央政府用、白色=州政府用、青色=県政府用の3種類)を受け取り、カーテンで仕切られたブースに入ってそれぞれの投票用紙に描かれた政党、1. PPP (Partai Persatuan Pembangunan 開発統一党。イスラム系)、2. Gorkar (Golongan Karya「職能集団」。政府与党系)、3. PDI (Partai Demokrat Indonesia インドネシア民主党。キリスト教系)のシンボルマーク(写真5)を針で刺し、黄色、白色、青色の投票箱に入れる。したがって投票することを「刺す」(tusuk)という。ロスメン・インドラのオムはVサインして、No.2 (ゴルカル)に入れたと合図した。インドネシア国籍を持つトアルコの杉山さんによると、インドネシアでは選挙に行かない者は国賊扱いらしい。明日から開票だが、結果はどうだろうか。夕方、リクとトラジャ語のレッスン。ロスメン・インドラのオムはトラジャ語を覚えようとは思わない、以前トラジャ語を使ってみて笑われたことがあるからだという。インドネシア語が通じるなら、同じインドネシア人同士、無理することはないと彼は考えている。ただ、トラジャ語を学んでいくと、インドネシア語とトラジャ語では世界の見え方が違うように思えてくる。夜、LIPIへの報告書の草稿作り。これは3ヶ月に1度の義務である。

註5 Crystal, Eric. 1970. Toradja Town. Ph.D. Dissertation. The University of California, Berkeley.

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写真5 総選挙ポスター。1 開発統一党(左)、2ゴルカル(中央)、

3インドネシア民主党(右)のシンボルマークが見える

 

5月3日

 午前中裁判所に行っている間にトービーとチャールズがロスメン・インドラに来ていた。マカレの警察署に報告に来た帰りに寄ってみたとのこと。トービーの先生であるThomas Kirschが書いた論文を貸してくれる(註6)。勲功祭宴(feasts of merit)の要素が強いトラジャの葬儀研究にとっては面白そうな論文である。昼食後、彼らがキラさんのところへ行くというので、私も一緒に行って話を聞く。明日はランテレモにあるティランガという池に泳ぎに行こうと約束して別れる。

註6 Kirsch, A. Thomas. 1973. Feasting and Social Oscillation: Religion and Society in Upland Southeast Asia. Ithaca: Southeast Asia Program, Cornell University.

 

5月4日

 朝、チャールズから電話があり、今日は天気がよくないのでティランガに泳ぎに行くのは見合わせようとのこと。互いにホテル住まいなので電話を使えるのは便利だ。裁判所に行き、裁判記録を読む作業を続ける。午後、ネ・ルケとネ・ピアが今日プアンの水田の稲の発育を願う儀礼をおこなうと知らせに来たので、ミナンガに出かける。昨夕は祖先へ、今日は神々に鶏を供犠し、米飯の竹筒料理を捧げたということで、田んぼの片隅にその証拠が残されていた(写真6)。

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写真6 稲の発育を願う儀礼を行った証し。田んぼの片隅に立てかけられていた

 

5月5日

 裁判所から帰って、午後ランテレモから2〜3キロ入ったところにあるティランガに泳ぎにいく。水はとてもきれいで、神秘的な湖という感じ。少し冷たかったが、気持ちよかった。帰り道、オリンパスのカメラをなくしたことに気づく。午前中に行った裁判所なども捜してもらったが、見つからなかった。明日また捜すことにして、ロスメン・インドラに戻る。

 

5月6日

 カメラの件、裁判所の所長に相談して、全職員にチェックしてもらったが、見つからず。誰かが盗んだかもしれないが、1人1人を調べるわけにもいかない。事故として諦めるしかないが、とりあえず警察に紛失届けを出す。カメラはもう1台あるので、調査には支障はない。午後、ランテパオへ。以前見ることができなかった家畜の市場(pasar hewan)を見学する。その後トアルコの奥村さん、杉山さんに会いにいく。マカレに戻り、トービーとチャールズも呼んで、カレーライスを作って一緒に食べ、昨日買ったジョニーウォーカーを飲みながら夜遅くまで話す。

 

5月7日

 ちょっと風邪気味で、喉が痛む。妻も夕方より腹痛と熱。飲んだ翌日はどうもいけない。夜、LIPIへの報告書完成。トアルコの相馬さんがウジュンパンダンの帰りに寄ってくれ、缶詰などを差し入れてくれる。ありがたくいただく。

 

5月8日

 午前中、文部省と大学学部時代の友人八巻俊道君に手紙を書く。八巻君は近々結婚式を挙げるはずだ。夕方、ロスメン・インドラのオムがこれから奥さんに会いに病院に行くという。今朝、10番目の子ども(女の子)が生まれたのだ。そのために(ロスメンのボスがジャカルタに行って不在なので私に)5000ルピア貸してくれないかと頼まれる。少し大金だがオムの人柄はわかっているので貸すことにする。

 

5月9日

 朝、トンドック・リタックへ。トアルコのコーヒー精選加工工場の棟上げ式 (mangrara pablik)に参加するためだ。工場敷地の輪郭が明確になり、トンドック・リタック工場の責任者である奥村さんの家の骨格が出来上がっていた。この儀礼のために豚4頭、米100キロなど金額にして15万ルピアを村長に渡し儀礼の執行を任せたという。村長の挨拶、牧師のお祈り(ということはこの儀礼はキリスト教式か)、村人約400人に供犠した豚肉を分配し、豚肉の竹筒料理とご飯を共食する。トラジャではこれをやらないと村のメンバーとして認めてもらえないわけだ。トービーとチャールズも参列していた。ここは、偶然だが、彼らが住み込み調査をおこなっている村である。午後遅くランテパオに戻り、夕食に焼きナスと生野菜のサラダを作る。生野菜はきれいな水で洗う必要があるので、とても手間がかかった。夜8時頃マカレに戻る。

 

5月10日

 先日はカメラをなくしたが、今日はどこかで5000ルピアを紛失。風邪気味で喉も痛く、落ち込む。「私への態度が悪いからよ」と妻はいう。そうかもしれぬ。

 

5月11日

 午前中、郵便局に行き、LIPIへの報告書とインドネシア大学のクンチョロニングラト先生宛の手紙を投函。体調が思わしくなく、午後はゴロゴロして過ごす。NHKのラジオ・ジャパンで大相撲の中継放送が入る。都立大の石川栄吉先生への手紙を書こうとするが、集中できず。

 

5月12日

 石川栄吉先生と大学院の同級生冨尾賢太郎君に手紙を書く。風邪がまだ抜けず、仕事をする気になれない。トアルコの相馬さんが持ってきてくれた朝日新聞を隅から隅まで読む。中部スラウェシ、ポソからパルへの旅行計画を立てる(註7)。

註7 これは1976/78年のトラジャ滞在中には実現しなかった。実現したのは1984年10月の再調査の折である。

 

5月13日

 ト・ミナアのネ・バドゥに会いにいこうと思ったが、家への道が悪く、遠いと聞き断念。裁判所に行って、判例を写す。今日は金曜日なので午前11時に閉庁。宿舎に戻り、エリック・クリスタルの博士論文の続きを読む。フィールドワークの記録としては優れているが、理論的な展望が弱いという印象を受ける。風邪が抜けず、微熱が続く。

 

5月14日

 昨日は断念したのだが、ネ・バドゥの家を訪問。彼はエリックが1960年代末にフィールドワークワークをおこなったときの重要なインフォーマントの1人だ。あっさりとした、頭の回転が早い人である。末っ子が(たぶん結核で)咳き込み、血の混じった泡をはき、かわいそうだった。午後、近所のベンヤミン・タンドゥンさんを訪ねる。かつてメンケンデック郡の慣習保存会の代表だった人である。彼も気さくで感じのいい人だ。明日ミナンガに戻ることにしたので、夕方、インド・ナ・ライのところに挨拶にいく。ミナンガでは明日インド・ナ・ライの快気祝いのマンターダ(祖先への感謝儀礼)をやるとのこと。プアンはもうミナンガに行ったそうだ。リクと最後のトラジャ語のレッスン。お礼に3000ルピアと日本紹介のパンフレット、日本製のハンカチをプレゼントする。オムから5000ルピアを返してもらい、2000ルピアを子どもの出生祝いとして渡す。夜、日本時代にトラジャにいた日本人の父を持つという警察官が突然やって来た。父親の名はフジムラさん。これだけでは同定は不可能だが、父を捜す子どもの気持ちはわかる。マカレでの最後の日はこうしてあれやこれやの出来事であわただしく暮れた。


※次回は9/21(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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トンコナン型のホテルの建設

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