トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第10回 マカレのロスメン・インドラに移る、総選挙キャンペーン 1977.3.6〜3.25

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3月6日

 総選挙の規制に従って、タナ・トラジャ県の県庁所在地マカレのロスメン・インドラに移る(写真1)。今日から選挙が終わるまでの2ヶ月ばかり、トラジャの「町」での生活が始まる。借りた2階の離れ部屋はとてもきれいだ。階下の食堂と台所も使ってよいという。昼間は村への出入りは自由なのでさっそくミナンガに出かけると、ウジュンパンダンから戻ってきたインド・ナ・ライとプアンが米を取りに来ていた。ネ・ランマンの田では40人くらいの男たちが田んぼの畦を作る作業をしている(写真2)。都立大の鈴木二郎先生、(1月にトラジャを訪れた)竹田さんから手紙が届く。ピーターからは絵はがき。シンガポールからだった。

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写真1 ロスメン・インドラで。左端は筆者。右端はロスメンの管理者のオム。

その隣はトラジャ語を教えてもらったリクとその弟(山下淑美撮影)

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写真2 畦を作る(ma’tampo)

 

3月7日

 馬淵東一先生からコピーさせてもらったサンガラ王族の系図を持ってインド・ナ・ライのご主人のマンゴンタンさんに説明を聞きにいく。この系図はどうやら彼の父親が叔父から聞き書きしたものであるらしい。というのも、彼が父親から継承した系図とほとんど一致しているというのだ。オランダ植民地政府はトラジャを掌握するために王族層の系図を作ることを命じ、当時プアン・サンガラの「通訳」(juru bahasa)だった彼の父親が系図作りに関わっていたとのことである。この系図の解説を作ることが今回の調査の目的の1つである。ミナンガのインド・セサの娘ポリーナ──県知事の家に止宿してマカレの学校に通っている──にトラジャ語を教えてくれるように頼む(註1)。3月31日のスハルト大統領のトラジャ訪問を控え、県知事一家は軍の施設に移り、宿舎 (pasanggarahan) の改装が始まる。文部省に手紙。

註1 トラジャ語の先生はのちにマカレ在住の高校生リクに変わった。

 

3月8日

 朝、ウジュンパンダンの津田さんに手紙を書く。午後はミナンガに出かける。ママ・ナ・ポーリー──ルケの実母なのでママ・ナ・ルケでもあるが、ルケの父親とは離婚しているためルケの異父妹である「ポーリーのお母さん」と呼ばれている──が男の子を産んだと聞き、ルケと一緒にケペの実家を訪れる。子どもが生まれたときはおみやげとして灯油か米飯を持っていくとのことで、ルケは村長ハジのところで灯油を1瓶買って持参(何故灯油なのかは不明)。ママ・ナ・ポーリーはトンコナン・ブントゥ・ケペのト・パレンゲであるアンベ・ソ・リンブの家に住んでいる。ネ・ルケ(つまりママ・ナ・ポーリーの母親)の亡夫がアンベ・ソ・リンブの息子という関係だ。ママ・ナ・ポーリーは産後2日とたたぬというのにもう起き上がっていた。お産したのはサリ(sali)と呼ばれる居間の南西隅で、産婆とネ・ルケが立ち会ったという。ヘソの緒は家の東北隅に埋めたらしい。

 

3月9日

 1日中本を読んだり、寝ころがったりして休息の日を決め込む。朝、都立大の石川栄吉先生から手紙が届く。今年は大学院修士課程に6名、博士課程には3名入ったとある。『民族学研究』(日本民族学会の機関誌)(註2)に投稿しないかというお誘いをいただく。何か面白い話でもあれば、書かせていただきたいとは思うが・・・。

註2 日本民族学会は2004年に日本文化人類学会と改称。機関誌も『文化人類学』に変更された。

 

3月10日

 午前中、京大東南アジア研究センターの坪内良博さんに手紙を書く。午後は昼寝と読書。夜、Chabotのマカッサルの村に関する論文を読み返す(註3)。私のミナンガ村落研究はまだまだである。親族関係の調査も不十分だ。市場ではトラジャの特産物であるコーヒーの価格が高騰している。アラビカ種、ロブスター種ともに1リットル1800ルピアもする(写真3)。昨年9月にトラジャに来た頃はロブスター種なら600ルピアだった。ロスメン・インドラの管理者オム──オム(om)はインドネシア語で「おじさん」の意。彼のことをそのように呼んでいた──によると、彼が1973年にトラジャに来た頃は(オムはフローレス島エンデの出身で奥さんがトラジャ人)300ルピアだったという。マリリ(パロポの東180キロ)にあるINCO(ニッケル工場)と観光客がトラジャのコーヒーの値段をつり上げているとオムは言う。

註3 Chabot, Hendrik T. 1967. Bontoramba: A Village of Goa, South Sulawesi. Koentjaraningrat ed. Villages in Indonesia, pp. 189-209. Cornell University Press.

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写真3 市場のコーヒー売り

 

3月11日

 マカレの町を展望しようと、マンガッサの丘に登る。ここからだと町がよく見える(写真4、5)。丘の上を歩いていくと、イポさん(県知事夫人の甥)の一行に出会った。葬式に行くところだというので同行させてもらう。式場は県知事の宿舎の裏手に当たるところで、キリスト教徒の葬式だった。家にあげてもらうと、日本統治時代の話になった。当時のブンケンカンリカン(トラジャ分県管理官)はヤマモトという人だった。日本人は野菜の作り方を教えてくれた。日本人の兵隊さんの褌が川に流れて一緒に捜した・・・。飯塚浩二の『アジアのなかの日本』にアジアの人びとにとって日本は西洋植民地からの解放者という役割を果たしたと書いてあったが、彼らの話からもたしかにそういう面はあると感じる。「ニッポン、インドネシア、サマ・サマ」(日本とインドネシアはおたがいさま)的な大東亜共栄圏の発想はこう素直に受け取られると気恥ずかしくなる。赤飯(赤米を炊いたもの)、豚の竹筒料理、ヤシ酒をごちそうになる。夕方に雨。トラジャの雨期の雨の降り方のパターンである。

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写真4 マカレの町の景観。中央に市場、右手に大きな池、

背後にメンケンデック郡の山並みが見える

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写真5 池のなかにトラジャの伝説上の英雄ラキ・パダダ(註4)の像が建っている

註4 ラキ・パダダについては拙著『儀礼の政治学──インドネシア・トラジャの動態的民族誌』弘文堂、1988年、pp.48-50参照。

 

3月12日

 朝、大学学部時代の友人小林敏君から結婚式の通知が届く。3月26日が結婚式だとのこと。続いて3月27日にはやはり大学学部時代の友人田村俊作君、5月には八巻俊道君も式を挙げるらしい。さっそく返事を書く。午後、ミナンガヘ。ネ・ルケにコーヒー豆をトラジャ式に石臼で挽いてもらう。また、インド・カラックとポン・タンケに会って話を聞くが、たいした成果はなし。農耕の開始に当たって「先導する」役目を担うブンガ・ララン(bunga’ lalan)という役職はミナンガでは絶えて久しいようである。夕方、激しい雨。

 

3月13日

 すこし早めに昼食をとってランダナンのプアン・ガウレンバン宅へ行き、口承伝承のタイプスクリプトを写す作業を進める。ついでに選挙キャンペーン用の演説の原稿も写させてもらった。村レベルの総選挙を分析するうえでよい資料になるかもしれない。明日はランテパオでトラジャ、ルウ、エンレカン3県の合同でゴルカル (Golkar=Golongan Karya 「職能集団」。政府与党)の集会が開かれる。そのせいかロスメン・インドラもエンレカンなどからの客で一杯になる。

 

3月14日

 ゴルカルの選挙集会を見にランテパオに行く(写真6)。集会ではインドネシア語とトラジャ語が併用されていた。「県」(kabupaten)をトラジャ語では「クニ」(tondok)と訳していた。タナ・トラジャ県は1つの「国」なのだ。日本語の万歳に当たるインドネシア語はヒドゥップ(hidup 「生きる」)で、右手を挙げて「ヒドゥップ・ゴルカル!」(ゴルカル万歳!)などと叫ぶ。ムルデカ(merdeka 「独立」)という言葉が頻繁に使われ、子どもたちも歓迎の式典に駆り出されていた。儀礼の時のように、ヤシの若い葉が飾り付けられ、装身具カンダウレ(写真7)が吊るされ、芸能が披露された。まるでお祭り騒ぎだ。帰路、ウィスマ・マリアにトービーとチャールズを訪ねる。レストラン・ラフマットで一緒に食事をとる。彼らは選挙期間中ランテパオにいることにしたらしい。ランテパオはトラジャの県庁所在地ではないが、それに準ずる町として認められたようだ。先日田植えがおこなわれていたアランアラン (ランテパオから南に5キロ)付近では稲が生長して一面の緑になっている。ブンギンでは田植えの真っ最中。北のパンガラから南のメンケンデックまで農事暦は2ヶ月ほどのズレがあるらしい。

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写真6 選挙キャンペーン。インドネシア国旗、ゴルカルの旗とならんで

トラジャのビーズ装身具カンダウレが掲げられている

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写真7 カンダウレ。ビーズ細工の装身具

 

3月15日

 昨日プアンがミナンガに行ったというので、そろそろ田植えの時期かなと思い、ミナンガに様子を見にいく。しかし、田植えは2週間後とのことだ。それで今日はインド・ルーベンとネ・コマンダンから家族構成のことなどを聞き取る。夜、ロスメン・インドラのオムからトラジャとフローレスの違いなどについて聞く。彼の家族はマカレから8キロほど離れたところに住んでいるが、家には3ヶ月に1度給料を届けに帰る程度で、子どもたちとはインドネシア語で会話するという。

 

3月16日

 市場でモヤシ(toge)を売っていたので買ってみる。大豆からではなく、緑豆(カチャン・ヒジョウ)から作るらしい。安いし、結構いける。ブランデーと南スラウェシ特産のマルキサ(markisa パッションフルーツ)ジュースを買う。ベネデット・クローチェ『歴史の理論と歴史』を読み始める。

 

3月17日

 ミナンガへ。プアンの田んぼの畦を作るというので、お土産に市場でランサ(langsat センダン科の黄土色の小さな果実。インドネシア語ではduku)とお菓子(デッパ・トラジャ)を買って持っていったが、まだ田に水が多いので延期になる。それでインド・セサの家に行き、家族構成など聞く(写真8)。水田の所有形態についてはぼちぼち聞き取りを始めている。トンコナン(親族集団)による共有がどのくらいあるのか、どのように収穫物を分配するのかがポイントだろう。マカレではロスメン・インドラの裏手にあるキリスト教会(ペンテコスタ派)から毎晩歌声が聞こえてくるので、オムに何をしているのかと聞くと、病人の回復を祈っているのだという答え。通りの向かいのモスクからは1日に何度かアザーンがラウドスピーカーから流れてくる。キリスト教であれイスラム教であれ、宗教は音とともにあるようだ。

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写真8 インド・セサ(2列目左の幼児を抱いている女性)の家族。

前列右は夫のヘルマン。元夫との子どもを合わせると11人の子持ちである

 

3月18日

 インドネシア大学のブディ・サントソ講師、イロミ教授、それにエリック・クリスタルに手紙を書く。続いて『民族学研究』に寄稿するレポートに取りかかる。フィールドワークといっても、結構デスクワークがある。

 

3月19日

 スハルト大統領の訪問をひかえて、マカレの市場が裏手に建設された「新市場」に移される。大統領に「きたない」ところを見せたくないという理由らしい。県庁の前には歓迎の式典用の舞台ができつつある。新市場付近を通ってサンガラに抜ける道を歩いていくとリアン(壁龕墓)のある岩山(ブントゥ・ブラケ)が見えた。近づくと、副葬用のタウタウがあり、よじ登って写真を撮る。新しいタウタウの傍らには古風な顔をした古いタウタウが12体あった(写真9、10)。午後は、フレデリック・フォーサイス『ジャッカルの日』を読んで過ごす。PPP(Partai Persatuan Pembangunan 開発統一党。イスラム系)の客が何人かロスメン・インドラに泊まっている。

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写真9 ブントゥ・ブラケの古いタウタウ(副葬用人形)

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写真10 ブラケの古いタウタウの表情

 

3月20日

 日曜日。プアン・ガウレンバン宅に口承伝承のタイプスクリプトを写しにいく。ガウレンバンは義理の息子と一緒にゴルカルの選挙キャンペーンでパンロレアンに行っていて留守だったが、妻にタイプを頼み、近所に住んでいるネ・ブンガからバラとランダナンのトンコナン(註5)について聞き取りをおこなう。夕方、選挙キャンペーンを終えたガウレンバンが帰ってきて、明日はミナンガで選挙キャンペーンがあると教えてくれる。

註5 カンプン・バラとカンプン・ランダナンは1つの「儀礼共同体」(penanianあるいはbua’)を構成し、各トンコナンには儀礼執行上の役割が付与されている。

 

3月21日

 ミナンガでおこなわれたゴルカルの選挙キャンペーンを見にいく。私たちが住居として使わせてもらっているトンコナン・ブントゥ・タンティが舞台で、ティノリン村の村長のハジ・アンディロロが演説した(写真11)。ここが選挙キャンペーンの舞台として選ばれたのは、このトンコナンが「トンコナン・ラユック」、つまり首長のトンコナンだからだろう。トラジャ語なので内容はよくわからなかったが、ゴルカルのシンボルマークである榕樹が描かれたポスターを指し示しながら演説していたので、ゴルカルに投票しろということだろう。ト・ミナア(トラジャの伝統宗教の祭司)も呼ばれ、格調高いトラジャ語で演説した。村人は米倉の床や周辺に座って神妙に聞いていた(写真12)。ポン・タンケ、ポン・リタ、パンロレアンのト・パレンゲなどティノリン村の指導者たちから話を聞いてマカレに戻った。

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写真11 ミナンガのトンコナンでの選挙キャンペーン。

マイクを持ち演説する村長ハジ・アンディロロ。

前列左から2番目がプアン・ガウレンバン

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写真12 米倉の床や周辺に座って選挙キャンペーンの演説を聴く村人

 

3月22日

 マカレの町に隣接するボンボンガン村の役場でト・ミナアのネ・バドゥとメンデテックの若いト・ミナア、タトに会う。ネ・バドゥにはマダンダンのマブア・パレ儀礼(註6)のときに撮った写真を渡す。県庁前の広場が賑やかなので尋ねると、31日に来るスハルト大統領に披露するための踊りの練習をしているという(写真13)。しばらく見学したが、なかなか面白かった。普段着のままだったので、かえって現代性が感じられた。ボンガカラデンの踊りなど『花の応援団』の青田クンにそっくりだ。午後、ある日本人が私を捜しているというので、宿泊先のランテパオのロスメン・フローラに行くが、会えず。しかたなく、ウィスマ・マリアに滞在しているトービーとチャールズに会い、雑談。彼らは選挙期間中トラジャ語の習得に精を出しているようだ。マカレに戻って夕食時、妻から昼間食堂で手紙を書いていると、同宿のインドネシア人に胸を触られ、頬にキスされたと聞かされる。どうやら総選挙の関係で来ているPPPのメンバーの1人らしい。さっそくその男に抗議するが、のらりくらりした態度でどうしようもなかった。

註6 第5回12月17日および第7回1月17〜18日参照

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写真13 スハルト大統領歓迎式典の練習風景

 

3月23日

 件の男はまだロスメン・インドラに泊まっている。言うべきことは言ったので、様子をみることにする。昼前、サンガラのパサン・カナンさんを訪れる。1月に借りたタイプスクリプトを返す。奥さんがお菓子を作ってくれ、ミルクコーヒー、さらに卵焼きとナスの油炒めの食事も出してくれた。マカレに戻ると、昨日会えなかった日本人が来ていた。牧野君といい、東京教育大(現筑波大)で林学を学び、「何となく」東南アジアに来てしまったらしい。タイ、マレーシア、カリマンタンと回ってスラウェシまでやって来たという。おとなしい性格だが、芯はしっかりしている。夜遅くまで話し込み、牧野君はロスメン・インドラの私たちの隣の部屋に泊まる。

 

3月24日

 朝、バスでトラジャを発つ牧野君を見送り、電報局へ。結婚式を挙げる小林敏君に祝電を打つ。電文は”konotochi no medetaki utanado okuritashi Toraja yori Yamashita”とした。宛名、宛先、発信人の住所氏名などすべてが料金としてカウントされ、結構高いものについた。昨夜は寝不足だったので、ベッドでうとうとしていると、オムが来客だという。出てみると、トアルコの駐在員とともにキーコーヒー副社長の大木久さんが尋ねてきていた。いよいよ「幻のトラジャ・コーヒー」(註7)プロジェクトが本格化するらしい。正式にランテパオに事務所を構え、コーヒー工場を作るという。夜、写真の整理。

註7 大木さんは1970年に木村コーヒー店(現キーコーヒー株式会社)に持ち込まれたトラジャ・コーヒーの生豆がきっかけでこのプロジェクトを始めることになったらしい。木村コーヒー店は1934年頃すでにアラビカ種の絶品トラジャ・コーヒーを販売しており、その意味ではこれは「幻のトラジャ・コーヒー」の復活プロジェクトだった。トラジャ事業史編纂委員会編『トラジャ事業史』2001年、キーコーヒー株式会社、 pp.3-25参照。

 

3月25日

 妻にいたずらした男が、あたかも何もなかったように選挙キャンペーンの仲間と話していたので、ムッとしてこいつは卑劣な奴だと皆の前で罵倒してやった。男は「ナンバーワン・ムスリム」としてジャカルタから来ていて、信奉者がかなりいるらしかった。オムが今は選挙期間中なのでことを荒立てない方がよいというので、たまたま居合わせた私服刑事の立ち会いのもとで本件を「示談」とした。「恥」は南スラウェシの社会では重要な概念で、この種の「恥知らず」な行為は報復の殺人事件にまで発展することもあるということをこの男は知らないのだろうか。考えると気分が悪くなり、頭痛さえしてくる。

 

※次回は8/24(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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水牛と少年

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