12月13日
午前中、ウジュンパンダンで写させてもらったL. T. タンディリンティン(写真1、2)によるトラジャの系譜を清書する。系譜はトラジャ社会でどのような意味を持っているのか、どのような記憶のパターンに支えられているのか調べてみたい(写真3)。午後、津田さんからことづかった映画と日本紹介のパンフレット、それに私たちのおみやげを県知事に届けにいく。マカレの娘(インド・ナ・ライ)のところに戻っているプアンへのおみやげは、インド・ナ・ライがランテパオの病院に入院したというので持っていくのを延期する。
12月14日
午後、マカレから2キロのところにあるキリスト教会に隣接した学校の校庭でおこなわれた結婚式を見にいく(写真4)。新郎は警察官、新婦はシスターで、二人ともウジュンパンダン在住だが、結婚式はトラジャで挙げたわけだ。キリスト教徒による「近代的」な披露宴だったが、「船」のモチーフが出て来たり、伝統的なビーズ細工の飾り物(カンダウレ)が吊るされていたり、豚が供犠されたり、グラスにヤシ酒が入っていたりするあたりはきわめてトラジャ的である。参加者は洋装で、外観はモダンなのだが、中身はどうなのか。モダニズムとは西洋の模倣である。模倣の仕方も文化研究にとって重要だと思う。葬式と比べて、結婚式の方がモダニズムの影響を受けやすいのだろうか。葬式は「伝統」の方を向いているが、結婚式は「近代」の方を向いている。夜、大学院の先輩である小野(鍵谷)明子さんに手紙を書く。彼女は調査のためスンバに入ったらしい。
12月15日
サンガランギ郡マダンダン村でマブア儀礼があるというので、スケジュールを確かめにいく。ネ・レバンの葬儀がおこなわれている同村のランダより歩いて30分ほどのところにあるカンプン・ポトンで、明日の夕方から始まるという。カンプン長によると、儀礼のスケジュールは当事者にもよく分からぬものらしい。人びとのいろいろな都合を調整しながら決定されるという。だから、彼らはインドネシア語で「もし妨げがなければ」(kalau tidak ada halangan)という言葉を必ず付け加える。その時がこなければ予定は決まらないのだ。今日は往復15キロほど歩きとても疲れた。トラジャの山道を歩きながら、いつも思い出すのは折口信夫(釈迢空)の「葛の花踏みしだかれて色あたらしこの山道を行きし人あり」という短歌である。葛の花がトラジャにもあるかどうか知らないが、「この山道を行きし人あり」という文句は「道」というものを考えるヒントになる(写真5)。人が通った痕跡のある道を歩いて村にたどり着き、村人とのコミュニケーションが生まれる。道は人と人のコミュニケーションのための媒体だ。夜、県知事が来て一緒に(津田さんからことづかった)映画を見る予定だったが、例によってすっぽかされた。予定は未定、「その時」が来なければ決まらない。
12月17日
昨夕よりマダンダン村ポトンでマブア儀礼を観察した。マブアにはいくつかの種類があるが、このマブアは稲作に関連した儀礼(マブア・パレ ma’bua’ pare)で共同体の豊穣儀礼である。昨日は村の役職者の家で夕食をいただき、ト・インド(to indo’ 母役)と呼ばれる儀礼の役職者の家に着いたのは午後8時頃だった。カンプン長から調査許可証の提示を求められた。規則によると調査の際許可証を提示することになっているのだが、実際に提示を求められたのはこれがはじめてだ。儀礼では、女たちの歌(写真6)のあと、ト・ミナア祭司による祈りが続いた。この村のト・ミナアは年老いて儀礼を執行できないので、マカレからネ・バドゥというト・ミナアが呼ばれていた。彼はエリック・クリスタルがマカレで調査したときのインフォーマントである。午前3時頃引き揚げたが、お祈りは明け方まで続いたようだ。この儀礼は伝統宗教(アルック・ト・ドロ)の信奉者のみ参加ということだが、このカンプンの伝統宗教の信奉者は約50戸、住民の約3分の1である。かつて共同体全体を巻き込んでおこなわれたという儀礼もいささかしょぼいものに感じられた。それにしても、往復15キロの道のりは疲れる。昨日と合わせると30キロ歩いたことになる。
12月18日
休日。フィールドノートの整理。レイモンド・ファースの民族誌We, the Tikopia(註1)を読む。
註1 Firth, Raymond. 1957. We, the Tikopia: A Sociological Study of Kinship in Primitive Polynesia. Second Edition. Beacon Press.
12月19日
午前中、読書と手紙書き(インドネシア大学のクンチョロニングラト教授宛)。昼寝後、夕方、バトゥ・キラでトラジャ語のレッスン。文章構造、語の配列法などがつかめず、なかなか上達しない。ミナンガのプアンの水田では、ネ・ピアらプアンの小作たち(to pariu)により田起こしが始まる(写真7)。バトゥ・キラ付近の田んぼも同様。稲作の季節の到来である。
12月20日
ママサ旅行から帰ってきたピーターがやって来た。ママサ地域は95%以上がキリスト教徒であること、トラジャに比べて貧しいこと、風景はとても美しく、村はクリーンであることなどを教えてくれる。ビットゥアンとママサの間は道が非常に悪く、頑強なピーターもさすがに参ったらしく、トラジャに戻ってから2日間寝込んだという。午後遅く、ピーターと一緒に井戸へ行き、マンディ(水浴び)。夜、ウジュンパンダンでもらったブランデーを飲みながら、トラジャ人の悪口を言い合う。イザヤ・ベンダサンも書いていたように、他民族の悪口を言うと気持ちがいい。
12月21日
午前中、ピーターが録音したレンポのメロックでの男たちの歌(註2)などをダビングさせてもらう。午後はイポさんから借りたプロジェクターで(村で唯一電気のある)村長の家で村人たちにも来てもらってウジュンパンダンで現像した写真のスライドショーをおこなった。村人のコメントを大いに期待していたが、ほぼ無反応だった。映し出された水牛を見て、「水牛だ!」(tedong!)というようなことしか言わない。村人の反応とはそんなものか。
註2 第3回写真18参照。
12月22日
午前中遅く、ピーターと連れだってマカレ北部のレモの闘鶏を見に出かける。葬儀の一環としておこなわれるものだが、政府の許可がまだおりていないということで、今日は見ることができなかった。それでランテパオに行き、ワルン(屋台店)で鶏のスープとソッコ(ちまき)の昼食をとる。安くて、とても美味しかった。ピーターは26日にトラジャを離れ、ジャカルタに向かうということだ。彼の夢は東南アジア地域を旅行して写真を撮り、写真家になること。モノは声を出さないから、写真を撮るときはできるだけ対象に近づけと教えてくれたのはピーターだった。このオーストラリアの青年には親しみが持てる。
12月23日
インドネシア大学のイブ・アニーに手紙を書く。その後、マカレに行き、ブリキ製のオーブンを買う。ミナンガは最近雨期に入ったようである。雨期といっても、一日中雨が降るわけではなく、午後遅く(3時半頃)雨が降り出し、翌日の明け方までにはやむ。田んぼは水でうるおってきているが、村長によると、田植えは3月から4月にかけてだという。プアンの田んぼの稲の収穫量は3万束ほどとのことだ。市場では1束25ルピアで売っているからお金に換算すると75万ルピアになる。買ったばかりのオーブンでパンを焼いてみようということになり、夜、パン種を仕込む。明日の朝が楽しみだ。
12月24日
クリスマスイブ。午前中、プアン・ガウレンバンの話を聞くために、ランダナンに出かける。村内のペスタ(儀礼)に出かけたということでガウレンバンは不在だったが、若者に案内してもらって私も儀礼場に向かう。田んぼのあぜ道はサンダルでは滑るので、村人のように裸足になって歩いてみると、大地のぬくもりが感じられてとても気持ちよかった。儀礼終了後、ガウレンバンから少し話を聞き、彼が草したタイプスクリプトを借りて帰る。マンディの後、2、3日前から読み始めた小松左京の『日本沈没』の続きを読む。夜、妻が2度目のパン種を仕込む。今朝作ったパンは固すぎて失敗だった。もっとも、底味があってまずくはなかったが。
12月25日
午前中、近くのキリスト教会から歌声が聞こえてきたので、行ってみる。歩いて数分もかからぬところにあるのだが、訪れたのははじめて。20人くらいの人が集まっていた。クリスマスツリーが飾ってあり、夜は催しがあるということだった(写真8)。昼寝の後、明日ウジュンパンダンに発つピーターとお別れパーティをするためにランテパオに行こうとしていたら、県知事がバトゥ・キラの別宅に来ているから夜来ないかという知らせが入る。それでまずランテパオに行き、ワルンでピーターとお別れの夕食をとったあと、ランテパオ発ウジュンパンダン行きの夜行バスに乗り、バトゥ・キラで降りて知事の別宅に向かった。県知事が津田さんからの日本映画とエリック・クリスタルが撮ったマブギというトラジャのトランス儀礼を扱った映画を見せてくれた。クリスタルの映画は、映像は素晴らしかったが、説明が不足していると感じた。
12月26日
昼近く、バトゥ・キラの県知事の別宅でおこなわれたクリスマスパーティに招待される。集まって来たのはトラジャの「お偉方」のようだったが、一族郎党を率いてパーティをおこなう県知事には「王様」(raja) のような存在感があった。インドネシア人のパーティに出て感じるのは、彼らのパーティがとてもあっさりしていること。はじめに挨拶があり(今回はクリスマスなので主への祈り)、食事をし、談笑したら、さっさと帰る。でれでれと続く日本人の飲み会とは大違いである。その点では日本人の方が「未開」だ。午後、いつものように雨が降り出し、マンディには行けずじまい。また、妻が水牛肉のビーフシチューを焦がしてしまい、食べられず。だが、3度目のパン作りはうまくいき、「本物」に近づいてきた。
12月27日
妻とケンカ。夫婦ゲンカの原因は理屈では説明が難しい。トラジャでの生活の心理的なプレッシャーがヒステリックに爆発したと言うべきか。ケンカ別れして、一人でランダに向かう。田舎道を歩くといろんなことを考えるが、同時にイヤなことを忘れもして気持ちが落ち着く。ランダではネ・レバンのタウタウ(副葬用人形)が完成し、それに関する儀礼が終わったところだった。この日より人形は遺体の傍に寝かされ、病臥すると考えられる(写真9)。ニョニャ・ロバーツも来ていて、昨日からこの儀礼を観察していたらしい。11月8日に持たれたマカケ・ロンポ (ma’kake rompo) という儀礼はかつて首長の死に際しておこなわれた首狩りの儀礼だと聞いて、観察できなかったことをとても残念に思った。トラジャにオランダがやって来たのは1906年。首狩りをおこなっていた時代から今日の世界経済システムのなかに組み込まれるまでの100年間──トラジャにとってこの100年とはどんな時代だったのか。『日本沈没』を読み終わり、今日からジェームズ・フレーザーの『金枝篇』を読み始める。
12月28日
かねてからの約束通り、プアン・ソンボリンギに会いにサンガラに出かけたが、ウジュンパンダンに行ったということで留守。インドネシア人との約束は当てにならないことを改めて思い知らされる。しかたなく、近く──といっても2キロほど離れているが──に住んでいるプアン・パンタンに会おうと家を訪れてみたが、パンタンも葬式に出かけていて留守。そこで彼が参列している式場に行ってみたが、忙しそうで話を聞く暇はなかった。また出直すことにして、5キロほど歩いてマクラ温泉へ。雨が激しく降って寒かったが、温泉につかると気持ちよかった。葬式でもらった豚肉を温泉の主人に料理してもらって、ビールを飲んで、眠りについた。
12月29日
午前中はマクラでフィールドノートの整理。午後山を下る。途中で偶然ウジュンパンダンから戻ってきたソンボリンギに会った。私との約束は覚えていて、バツの悪そうな顔をした。1月に再訪すると伝えて、マカレに向かった。ところが、あろうことか、私たちが乗ったミニバスがマカレ近くで対向車に衝突したのだ。私は助手席に座っていたが、スピードが出ていなかったので大事には至らなかった。それにしても、トラジャで交通事故に会うとは!その後、妻と別れて、マブア儀礼の続きをみるためにマダンダン村ポトンに向かったが、こちらも情報ミスで儀礼は明日だという。ミナンガまで帰る足がないので、ランダのネ・レバンの家に泊めてもらう。ついてない1日だった。歩き疲れて寝る。
12月30日
朝5時、ウンバティン(儀礼的涕泣)の泣き声で起こされる(写真10)。3日前から「病臥」していたネ・レバンのタウタウが「死んだ」のだ。その後、ポトンのマブアを見にいく。例によってニョニャ・ロバーツも来ており、見たかった儀礼を見逃したのでやり直してくれと言っていた。あまりに身勝手な要求なので、「オラン・ギラ」(きちがい)と言ってやった。が、村人は年寄りの言うことだからと、儀礼をやり直した。彼らの方が大人である。村人にしてみれば私も彼女と同じような破廉恥な研究者なのだろうか。おせっかいにも異文化研究をしようという人類学者の
12月31日
大晦日。おごそかに「行く年、来る年」を見守る日本の大晦日と違って、熱帯の大晦日は実にあっけらかんとしている。明日は新年で、休日という程度のことでしかない。それでも人びとは家の周りを掃除し、爆竹の音があちこちから聞こえる。ポトンでは明日もマブア儀礼の続きがあり、サダン(セセアン郡)ではメロックがあるとの噂。メバリではいつも通り定期市が開かれている。トラジャの伝統では大晦日も新年もないようだ。夕方、蕎麦の代わりのビスケットとコーヒーで年越し。夜、NHKラジオの国際放送で「紅白」を聞こうとしたが、電波が入ってこなかった。
※次回は6/15(火)更新予定です。