トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第9回 総選挙にともなう規制、ウジュンパンダンのトラジャ人、マカレの住居捜し 1977.2.14〜3.5

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2月14〜15日

 明日ウジュンパンダンの警察署に出頭せよとの連絡を受ける。急遽夜行バスに乗り込み、ウジュンパンダンに向かう。午前3時か4時頃、うとうとしていると強い衝撃を感じた。パレパレの手前16キロ付近でバスが(止まっていた)トラックに衝突したのだ。前列に座っていた客が数名怪我をしたということだったが、後方に座っていた私と妻は無事だった。夜明け前、事故処理が終わり、バスはなんとか動き出したが、途中雨期による川の増水で橋が流されていて立ち往生したりして、ウジュンパンダンにたどり着いたのは昼近くだった。前回同様、津田さんのところに泊めてもらうことにし(註1)、荷物を置いたあと、さっそく警察署に出向く。5月におこなわれる総選挙の治安対策のためフィールド調査を規制するとのことだった。今日は口頭による通達だけで、明日詳しい書類を渡すからまた来いという。例によってインドネシア式の官僚主義だ。トービーとチャールズも呼び出されていて、警察署での用務が終わったあと、スラウェシ通り(Jl. Sulawesi) のコーヒー店でいろいろと話す。彼らは結婚して間もなくトラジャに来たという。1930年代にバリで調査をおこなったマーガレット・ミードとグレゴリー・ベイトソンのようにハネムーン・フィールドワークだ。

註1 第4回1976年12月10日参照。

 

2月16日

 午前中、再度警察署に出頭。選挙期間中、外国人は県庁所在地以外に住んではならないと知らされる。昨日はそんなことは聞いていなかったと抗議したが、ジャカルタからの通達だから変えられないと押し切られた。そこで、たまたまウジュンパンダンに来ていたタナ・トラジャ県知事のアンディロロさんに相談すると、トラジャに帰ってからなんとかしてあげると言ってくれたので、ひとまず安心する。

 

2月17日

 ウジュンパンダンに最近オープンした日本総領事館を見にいく。スラバヤから異動してきた寺田総領事と吉田領事が忙しそうに動き回っていた。現地採用のインドネシア人がのんびりしていたのとは対照的だった。その後、プアン・ミナンガの家族が滞在しているサックン(プアンの妹の夫)宅を訪れる。ウジュンパンダンの病院で治療中のインド・ナ・ライはまだ投薬が続いており、しばらくこちらにいるとのこと。サンガラの王族がトラジャのリアン(壁龕墓)に置かれていた古い船型木棺(エロン)を750万ルピアでイギリス人に売った嫌疑で警察沙汰になっているとの噂を聞く。木棺はパレパレ港から運び出されてすでにロンドンにあるいう。王族が自らの「宝物」を売る。文化が売買される時代だ(註2)。

註2 1980年代には、トラジャの副葬用人形(タウタウ)が盗掘され、ニューヨークやパリの古美術商の店に並ぶという事態が生じた。

 

2月18日

 トービーとチャールズに招待されてウジュンパンダンから16キロほど離れたところにある彼らの友人宅を訪れる。南スラウェシの農業開発計画に携わっている研究者である。夕食をごちそうになりながら、トラジャのことなどいろいろと話す。アメリカの研究者のレベルは私たちとさほど違わないように思える。問題は英語の表現能力だ。これがないと国際競争には勝てない。トラジャの調査が終わったら、アメリカに留学して英語力を高め、博士論文を書きたいと思った(註3)。

註3 トラジャでのフィールドワークを終え、帰国後、国際文化会館ニトベフェローシップにより1981年7月から83年7月にかけて米国コーネル大学、英国ケンブリッジ大学、オランダのライデン大学で在外研究をおこない、トラジャ研究を深める機会を与えられた。

 

2月19日

 津田さん宅に泊ったときの楽しみは日本の小説が読めることだ。ここに来てから横溝正史『石膏美人』、森村桂『天国に一番近い島』、遠藤周作『ぐうたら交友記』、東海林さだおの漫画など1日1〜2冊のペースで読んでいる。誰が置いていくのか知らないが、新旧、硬軟いろいろあり、津田さん宅を訪れる人が結構借り出している。昼前、警察署とハサヌディン大学に行き、午後はソンバ・オプ(ショッピングセンター)でノート、フィルムなどの買い出し。

 

2月20日

 妻がスカートを買いたいというので、昨日と同様、ソンバ・オプに出かける。ここは常夏の国なのだが、雨期は「寒い」と考えられており、厚手のジャンパーやセーターなども売られている。スカートは適当なものがなく、結局買わずじまいだった。帰路、サンダルの具合が悪いので修理を頼むと、その靴修理屋はトラジャ人だった。ウジュンパンダンには10万人くらいのトラジャ人が住んでという(写真1)。女はプンバントゥ(お手伝い)、男は靴修理屋(写真2)や大工(写真3)が多いらしい。この町のマジョリティであるブギス・マカッサル人がイスラム教徒であるの対し、トラジャ人はキリスト教徒である(写真4)。現像に出した写真をピックアップしたあと、古本屋で本を見る。

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写真1 ウジュンパンダンのトラジャ人。トンコナン(トラジャの慣習家屋)を模した看板

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写真2 ウジュンパンダンのトラジャ人。靴修理屋

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写真3 ウジュンパンダンのトラジャ人。大工

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写真4 ウジュンパンダンのトラジャ教会

 

2月21日

 市立図書館に行く。たいした蔵書はないが、ハサヌディン大学のマトゥラダ教授の学位論文などがあり、スラウェシ関連の本を調べるにはよいかもしれない。帰りにパサールセントラル(中央市場)に寄り、水筒を買う。ここでも物を買うには値切り交渉(タワール)が必要で、初め1500ルピアとふっかけられたので、半値の750ルピアで交渉し、購入した。しかし、別の店では初めから750ルピアで売っていたから、500ルピアくらいで買えたかもしれない。価格(物の価値)はどのようにして決まるのか。アダム・スミス以来の経済学の謎の1つである。

 

2月22日

 雨の中、べモ(乗合自動車)に乗って、ゴワ県スングーミナハッサ(ウジュンパンダン市内より南に約10キロ)にある旧ゴワ王国の王宮を見にいく。現在は博物館になっている (Museum Balla Lompoa)。市場のそばを通っていくと大きな広場があり、そのそばに高床式の王宮があった(写真4)。スルタン・ハサヌディン(1631~1670)が住んでいたところだというが、1936年に再建されたものだ。写真を撮っているとサンダルの紐が切れたので、近くの靴修理屋に駆け込む。ここでも靴修理屋はトラジャ人だった。これに対し、べチャ引き(力車夫)はマカッサル人が多いという(写真6、7)。こうした村井吉敬さんのいう「小さな民」たちの民族集団間の分業は面白そうな研究テーマだ(註4)。帰路、スルタン・ハサヌディンの墓を見て、ウジュンパンダンに戻る。写真屋に寄り、現像に出していたスライド写真とカラープリントを受け取る。いつも思うのだが、インドネシアの店員は愛想が悪く、時として横柄である。「お客様は神様」的な日本の接客とは大違いだ。この違いはどこから来るのか。

註4 村井吉敬1982『小さな民からの発想──顔のない豊かさを問う』時事通信社。筆者は1983年から86年にかけて科学研究費補助金による「東南アジアにおける地方都市社会の研究」(代表青木保)の一環としてウジュンパンダンのトラジャ社会を調査する機会を与えられた。拙著『儀礼の政治学──インドネシア・トラジャの動態的民族誌』弘文堂、1988年、pp.113-125参照。

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写真5 旧ゴワ王宮。現在は博物館になっている

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写真6 町を走るベチャ(力車)。ベチャ引き(力車夫)はマカッサル人が多い

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写真7 客を待ちながら昼寝する力車夫

 

2月23日

 明日トラジャに戻る予定だったが、津田さんの勧めもあり、2日ほど延ばすことにした。読書の日々は続き、北杜夫『どくとるマンボウ航海記』、柴田翔『島の影』、どおくまん『花の応援団』、飯塚浩二『アジアのなかの日本』などを読む。雨期ということもあるかもしれないが、ウジュンパダンは実に雨が多い。

 

2月24日

 朝から雨。読書三昧を決め込む。山口瞳『マジメ人間』、漫画『アストロ球団』、増田四郎編『西洋と日本──比較文明史的考察』、森村桂『結婚てなあに』と読みあさる。ふと気がつくと、ハナという名の津田さんの犬がイビキをかいて眠っている。

 

2月25日

 写真の現像が遅れて、さらに1日トラジャに戻る日を延期。津田さんと一緒にゴワの製紙工場(Kertas Gowa) を見学にいく。津田さんの知人の生産部長のお宅で少し話を聞く。トラジャ人についての話題が出て、トラジャ人は無口で、1人でこつこつやるような仕事に向いており、マネージャーのような管理職には向かないということだった。たしかにトラジャ人(とくに男)は無口だ。エリック・クリスタルがどこかでトラジャ人はisolationとlonelinessを好むと書いていた。

 

2月26日

 ウィリアム・リンク、リチャード・レビンソン『刑事コロンボ──偶像のレクイエム』、犬養道子『西欧の顔を求めて』を読む。犬養によると、日本人は自分とは関係のないことにそっぽを向いてしまう。関係のないことを見つめる眼が欲しいという。「関係のないことを見つめる眼」──「異文化」を見る眼もその1つだろうか。民族誌はそのような眼によって書かれるのだろうか。夕方、プアン・タンディランギに会いにいく(写真8)。サンガラ王族の末裔で、日本統治時代、馬淵東一先生がマカッサルにいた頃、トラジャ調査の助手を務めた人である。ウジュンパンダン在住で、トラジャの伝統文化を研究しており、南スラウェシの文化研究のアクティブなメンバーの1人だ。ただし、本人は母親がムスリムだったためイスラム教徒で、夫人はゴワの王族の娘である。

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写真8 プアン・タンディランギ。

ウジュンパンダン在住で、トラジャの伝統文化を研究

 

2月27日

 トラジャに戻る。ウジュンパンダンからトラジャに来るときいつも感じることがある。「トラジャの国」に「入る」という感じである。幾重にも折り重なる山々の襞のなかにその国はある。今回乗ったバスの運転士は、日本統治時代、兵補(現地人補助兵)だったとかで、私たちが日本人であると知りとても愛想がよかった。スマトラのバタック出身で奥さんがトラジャ人だという。異民族間の結婚について聞くと、同じインドネシア人なので全く問題はないと答えた。途中の休憩所でビールを飲み、日本の歌はよかったといって、右手は断崖絶壁の道を「支那の夜」や軍歌などを歌って上機嫌で運転していた。私たち乗客の方は崖から落ちないかとヒヤヒヤしていた。このバスで青森県出身の船乗りの青年と乗り合わせた。アンボンで6年働き、トラジャ人女性と結婚して、奥さんとトラジャに帰省するところだった。行くときと同様、雨期による増水で橋が不通になっていたり、タイヤがパンクしたりで、マカレに到着するまで12時間近くかかった。遅れはしたが無事到着すると「安全が一番!」(asal selamat!) と乗客から歓声があがった。さっそく、選挙期間中の住まいをどうするか県知事に相談にいくが、会議中ということで会えず、息子のヤニとジミー(バリ人と結婚してバリに住んでいるが一時帰省中)とおしゃべりして時間をつぶした。今夜はひとまずミナンガに戻れということで、車で送ってもらう。結局、規制に従って、県庁所在地であるマカレに住むことになりそうだ。

 

2月28日

 朝、マカレの警察署に出頭。選挙キャンペーン期間中のマカレの住居捜しを始めるが、適当なところが見つからない。1週間程度の猶予はある。県知事と知事夫人は来訪する南スラウェシ州知事をミナンガまで出迎え。選挙が近いということで出迎えにかり出された子どもたちがゴルカル (Golkar=Golongan Karya 「職能集団」。政府与党)の旗を振っていた。帰国途中の村井吉敬さんがバンコクで投函した便りを受け取る。

 

3月1日

 今日から3月。日本なら早春の候ということになるが、ここは常夏の国、雨期と乾期の区別はあっても四季はない。風土決定論はつまらないが、風土が人びとの暮らしに深く影響しているのは事実である。昼間、ネ・ルケがゴルカルのポスターを貼りに来る。村長ハジによると、これを貼らぬ家は「共産主義者」とみなされるという。

 

3月2日

 トービーとチャールズがミナンガのわが家にやってきて、昼食をともにした。2人はニューヨークの都会出身。トービーは繊細だが、どこか線が細い感じがする。彼らはエリック・クリスタルに対してジャーナリスティックだと批判的だった。彼らが人類学者としてどこまでやれるのかわからないが、私は彼らとは同世代、同じフィールド、同業者だということになる。友達ではあるが、競争相手でもある。

 

3月3日

 選挙期間中の住居をマカレのロスメン・インドラに決める。以前日本人の旅行者に紹介したことがある新しくてきれいで市場に近い宿舎である(註5)。2階の離れの部屋を県知事夫人の口添えにより月2万ルピアで借りることができた。相場の半額以下だ。3月6日に移ることにする。

註5 第7回1977年1月19日参照。インドネシアにはさまざまなランクの宿泊施設があるが、ロスメン(losmen) とはオランダ語の”logement”に由来する安宿。

 

3月4日

 県知事夫人からサルプティ郡で収穫祭があると聞いたので行ってみる。マカレよりレンボン方面のミニバスに乗る。この方面に行くのははじめてである。乗客の1人が、収穫祭がおこなわれるのはウルサル(レンボンより北に約12キロ)というところだと教えてくれた。ウルサルとは「川の頭 (川上)」という意味で、サダン川の支流を遡った丘の上にある村だった。収穫祭とはいうものの県知事が来ていて選挙活動の一環のようでもあった。村を構成する7つのカンプンが収穫を祝う芸能(マダンダンma’dandan=女たちの歌など。写真9)を披露。ただし、1つのカンプンはマカティア(ma’katia)という葬式のときの死者を讃える歌を披露した(写真10)。というのも、このカンプンでは近く葬式がおこなわれるため、収穫祭のような神祭のときに演じられる芸能を披露するのはタブーなのだ。生(神々)と死(死者)は混同されてはならないのである。県知事は収穫祭に因んで農業開発を選挙に結びつけて演説した。帰りは市場回りの商人の車──今日はレンボンの市場の開催日だった──に便乗させてもらった。彼らはマカレに住んでいて、市場が開かれるごとに衣料品などを積み込んで商いに出かけるという。

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写真9 マダンダン(ma’dandan)。豊穣儀礼における女たちの歌

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写真10 マカティア(ma’katia)。死者を讃える歌

 

3月5日

 明日の引っ越しに向けて、若干の荷物をロスメン・インドラに運ぶ。夕方、ルケから家の周りの木の名前などを聞く。写真の整理。

 

※次回は8/10(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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ウジュンパンダンの力車夫

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