トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第13回 ミナンガに戻る1977.5.15〜5.29

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5月15日

 ミナンガに戻る。プアンがインド・ナ・ライの快気を祝ってマンターダ(manta’da) をおこなった。豚を供犠して、竹筒料理を作り、ご飯とともに祖先に供えて感謝する儀礼で、午後に住居の南西側でおこなわれる。インド・ナ・ライの家族、県知事(インド・ナ・ライの兄)はじめ親族が集まり、トンコナン・ブントゥ・タンティのト・パレンゲ(ネ・デナ)が来て、祖先に供物を捧げた(写真1)。ソ・ネゴ、ネ・コピなど近所の村人も手伝いに来ていた。なんといってもミナンガの方が落ち着く。

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写真1 マンターダ。祖先に供物を捧げる儀礼

 

5月16日

 マカレの市場に行って、籐のござ(インドネシア語でtikar、トラジャ語ではampa)を買う。1100ルピアもしたが、作るのに4日かかるというので納得。持ち帰って、米倉の下の縁台に敷いて昼寝する。風が吹くと近くの竹林の笹の葉がさらさらと音を立て、実に気持ちがよかった。ミナンガの方が落ち着けるのは、この贅沢な住まいのせいだ。都会人のいやらしさも感じないですむ。村は素朴で、美しい。夕方、近所の女たちが集まって、プアンの米を搗く。米搗きを手伝った人には米1リットルが与えられた。これから残り8ヶ月ばかりここが生活と調査の拠点である。

 

5月17日

 この村のトンコナンのことを聞くためにサンペ・ボタさんを訪ねるが、マリリ(パロポの東180キロ)に行っていて不在。奥さんから家族構成などを聞く。プアンの田んぼの除草が始まる。約1週間かかるという。昨日は井戸の清掃。

 

5月18日

 午前中、ゲーテガンの郡役場に総選挙(註1)の結果を聞きにいく。郡長が不在だったため結果はわからなかったが、郡役場で郡内の結婚届が閲覧できたので、1976年度分(78例)と1977年5月まで(18例)を写す。96例中63例はカンプン内婚(同じカンプン内での結婚)で、内婚率は65%である。ただし郡役場に届け出ているのはキリスト教徒のみで、イスラム教徒は宗教局に、土着宗教信者は村の慣習保存会に、公務員は県庁に届けるとのこと。午後、プアンに来客。このところプアンには毎日のように客がある。今日はパンロレアンに住むト・ミナア祭司のネ・カダッケ(写真2)が来訪。彼は耳が遠く大声で話すのでとても騒々しい。

註1 第12回5月2日参照。

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写真2 ト・ミナア祭司ネ・カダッケ。手にしているのは噛みタバコ

 

5月19日

 メバリ市場の日。久しぶりにダンケ(dangke)を買う。ダンケとは水牛の乳で作ったチーズである。あっさりとしていてなかなか美味しい。1包み60ルピア。また、竹筒に入ったトゥアック(tuak ヤシ酒)を1本買って、ネ・ランマンの娘の結婚式に持参する。最近キリスト教徒のあいだで流行っているモダンな披露宴で式自体はあまり面白くはなかったが、ネ・ランマンが嫁ぐ娘に涙を流していたのは印象的だった。披露宴で出された豚の竹筒料理 (pa’piong) とご飯がとても美味しかった。妻に話すと彼女もそう思ったという。私たちもだいぶ「土着化」してきたのだろうか。総選挙でミナンガから35票の統一開発党(PPP イスラム系)への票が出たとの噂。イスラム教徒である村長ハジの息子ラフマンのグループの票らしい。トラジャではイスラム教徒(to sallang)は住民の約10%を占めるにすぎないが、ミナンガの大通り沿いにあるモスク(註2)の周辺には、ハジをはじめこの村のイスラム教徒が多く住んでいる(写真3、4)また、イスラム教徒の墓地もある(写真5)。

註2 第3回10月6日参照。

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写真3 ミナンガのモスクでの礼拝

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写真4 モスクでの礼拝(女性)

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写真5 イスラム教徒の墓

 

5月20日

 朝、一昨日に続いてネ・カダッケがプアンに会いに来る。彼に村のアダット(慣習)のことなど教えてもらおうと質問するが、耳が遠いので、コミュニケーションがうまくいかない。妻はマカレに行き、郵便局で手紙を2通受け取ってきた。1通は文部省からで、給付金の値上げはなしとのことでがっかり。もう1通はジャカルタのLIPI(インドネシア科学院)からのもので調査報告書を送れとのこと。午後は、それぞれに返事を書き、大変疲れる。プアンはプアンでこまごまとうるさいことを言うので、イヤな気分になる。

 

5月21日

 朝、マカレの郵便局へ。文部省とLIPIへの手紙を出す。LIPIへの手紙には報告書はすでに2度も送っている、よくチェックしてくれと書いておいた。ミナンガに戻って、アンベ・ナ・ノナ(A. S. Massola)の家で新築儀礼(mangrara banua)があると聞き見学に出かける。アンベ・ナ・ノナはマカレのプアン・スンブン(註3)の息子で、プアンの親戚でもある。豚を1頭供犠。新築儀礼など神々に関わる儀礼で供犠獣の解体役(to manulu)を務めるネ・タッピ・サクルが豚を解体、分配し、竹筒料理が作られた。プアンとインド・ナ・ライもヤシ酒1壺(写真6)を持参して参加。竹筒にして12〜15本分のヤシ酒が入る。ヤシ酒は竹筒料理と並んでトラジャの儀礼には欠かせない(写真7)。

註3 第11回4月6日参照。

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写真6 壺に入ったヤシ酒

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写真7 竹筒に入ったヤシ酒を飲む

 

5月22日

 ランダナンのプアン・ガウレンバン宅に行く予定をとりやめて、午前中は『民族学研究』のための報告書の草稿を書き、フィールドノートを整理する。昼頃、近所のインド・カラックとインド・ジェニーが言い争いとなり、プアンに仲裁を求めてくる。それでプアンとカンプン長(ネ・マラオン)を中心に数人が寄り合って議論していた。内容はよくわからなかったが、結論的には村長か郡長のところに行き、仲裁してもらえということになったようだ。夜、ネ・ルケ、ネ・ピア、ルケに昼間の口論の録音テープを聴いてもらうと、インド・ジェニーは最近離婚したはずなのに夜な夜な元夫がやってくる。それをインド・カラックがからかって口論となったということだった。何か深刻な議論のようだったが、じつは痴話げんかだったわけだ。

 

5月23日

 午前中、村役場で村内のカンプン別の人口統計、年齢構成、宗教構成、就業構造、土地利用などを写す。その後、ゲーテガンの郡役場に行き、1975年度の結婚届を閲覧。帰宅すると、留守中にトービーとチャールズが来ていた。彼らはバルプ(パンガラの北西15キロ)(註4)へ約10日間の予定で旅行するとのこと。

註4 第11回3月27日参照。

 

5月24日

 午前中、デスクワーク。LebarのEthnic Groups of Insular Southeast Asia (註5)からCentral Celebesのトラジャに関する部分を抜き書きする。午後、ケペのママ・ナ・ルケ(ルケの母親)の赤ちゃん(名前はソ・タト)を見にいく。ルケの父親はカリマンタンに出稼ぎ中に女ができ、ルケの母親とは離婚。彼女も再婚して現在はポーリーの父親である新しい夫と暮らしている。2人の間には第2子(ポーリーの妹)が生まれたが亡くなっており、このたび生まれたソ・タトは第3子である。彼女の家にはママ・ナ・ルケの祖父に当たるアンベ・ソ・リンブ(トンコナン・ブントゥ・ケペのト・パレンゲ)も同居していたので、彼に奥さん(配偶者)について聞く。すると、24人いると言って、名前をすらすらと挙げた。妻というより「私の関係した女」という感じで、結婚式を挙げたのは1人だけだという。彼女とは離婚はしていないが、現在は別居中だとのこと。トラジャの結婚の定義は一体どうなっているのか。妻も女もトラジャ語ではbaineである。

註5  Lebar, Frank. M. ed. Ethnic Groups of Insular Southeast Asia. Vol. 1. Human Relations Area Files Press, pp.124-147.

 

5月25日

 メバリ市場の日で買い物にいく(註6)。野菜が多いことで知られるこの市場で野菜が少なくなっている。理由を尋ねると、ニッケル工場のあるマリリから大量に買い付けにくるからとのこと。その後、ゲーテガンの郡役場に寄って郡長にメンケンデック郡の選挙結果を聞く。全体としてはGolkarの圧勝であるが、ミナンガではPDI (Partai Demokrat Indonesia キリスト教系)も結構票を獲得している(203票中32票)。35票のPPP (Pertai Persatuan Pembangunan イスラム系)への票が出たとの噂だったが、実際は2票のみ。郡の宗教局でイスラム教徒の結婚統計を写す。宗教局の局長は村長夫人(ハジ・シッティ)の弟だった。プアンがマカレに帰ると、プアンの世話人たちはプアンに対して文句たらたら。米を与えておけば良かった時代はもう終わっている。6月1日にウジュンパンダンに行く予定を立てる。

註6 トラジャの市場は6日に1度開かれる。前回のメバリ市場については5月19日を参照。

 

5月26日

 朝、調査した家族の親族関係のデータを整理。その後、先日娘を嫁に出したネ・ランマンに会い、親族関係を聞く。午後は、隣家のインド・セサの親戚に当たるインド・トゥパを訪ねたが、農作業に出ていて留守だった。帰路、大通り近くに村長ハジの煉瓦工房があるのに気づく。1日1000個くらい作っているらしい。彼はいろいろな事業に意欲的だ。今日は日差しの加減か、田んぼの生育する稲がとてもきれいだ。ルケの妹コンパイ(彼女はママ・ナ・ルケと一緒に住んでいる。父親はルケの父親と同じで、ママ・ナ・ルケの元夫)が遊びに来る。ネ・スレーマンの孫のソ・ペリが最近私たちによくなついている(写真8)。インド・セサの子どもが赤豆を持ってきてくれる。子どもとのつきあいも重要だ。

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写真8 ソ・ペリ。まだ6〜7歳だが、水汲み、炊事などいろいろとお手伝いをする

 

5月27日

 午前中、調査で録音したテープを聴く。午後はマクラ温泉に行く。K5(キロ・リマ。マカレから5キロ地点)から山道を歩いていくコースを試みる。途中、カンドーラの知人宅で休憩。マクラまで約3時間かかった。距離にすると7キロくらいだろうか。歩いた後、温泉につかるととても気持ちがいい。税金集めの役人が4〜5人泊まっていた。本来は3月が納税期だが、総選挙のため選挙後に延びたのだという。税金は貧しい人で年間1200ルピアくらい。2日間の労働分、あるいは鶏2羽分とのことである。

 

5月28日

 マクラから徒歩でマカレに出る。途中、プアン・パンタン宅に寄る。プアン・パンタンは留守だったが、孫の男の子たちが田んぼの池から鯉を取ってきてくれたり、若いココヤシのジュースを飲ませてくれたり、とてもよくもてなしてくれた。彼の家からマカレまで約7キロの山道を2時間ほどかけて歩く。マカレの市場のワルン(屋台)で氷入りのセブンアップを飲んで、喉を癒やす。マカレからはミニバスに乗ってミナンガに戻る。帰宅後、めがねをどこかに置き忘れたのに気づく。私の忘れ物はもはや病気の域で、我ながらあきれてしまう。めがねは3つ持ってきているので、万一なくしても大丈夫だが。

 

5月29日

 めがねを捜しに再度マクラへ。今回は徒歩ではなくミニバスに乗って行ったが、ミニバスがなかなか見つからず往生した。マクラに着いたのは午後1時頃。しかし、昨日泊まった温泉にはめがねはなかった。ことによるとプアン・パンタン宅かと思い、コーヒーを1杯飲んで彼の家に向かう。家の近くまで来たとき、昨日の子どもたちの1人がいたので、聞くとプアン・パンタンがめがねを見つけてマカレに住む息子のプアン・カパラに届けにいったとのこと。どうやら、昨日プアン・パンタン宅でカメラを取り出したとき、落としたらしい。とにかくめがねは無事だったと分かり、マカレのプアン・カパラ宅へ。そこにプアン・パンタンもいてめがねを受け取る。プアン・パンタンはどこか古武士の風情がある。プアン・カパラはエリックが調査した頃はボンボンガン村の村長だったが、1972年に辞めて今は「百姓」(petani)に専念しているという。なぜ辞めたのか不明だが、古いタイプの王族たちは最近の近代主義者の役人とはウマが合わないのかもしれない。しばらく雑談してミナンガに戻る。

 

※次回は10/5(火)更新予定です。

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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村の夜明け

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