トラジャその日その日1976/78──人類学者の調査日記

山下晋司さんが1976年9月から78年1月までの間にインドネシア・スラウェシ島のトラジャで行った、フィールドワークの貴重な記録を公開します。

第26回 連載を終えて 

 

 1978年1月14日にトラジャを出て、ウジュンパンダンで日本に荷物を送るための船の手配をしたあと、1月25日〜31日にバリ島、1月31日〜2月4日にジャワ島のジョクジャカルタを旅行した。そして2月4日、ジョクジャカルタから寝台特急ビーマに乗って、2月5日朝、ジャカルタに着いた。京大東南アジア研究センター・ジャカルタ事務所の前田(立本)成文さんのところに泊めてもらい、帰国のための航空券を購入し、2月11日にインドネシアを出国した。その後、シンガポール、クアラルンプール、ペナン、バンコク、チェンマイを回って、2月26日、バンコクから夜行便に乗り、27日朝、羽田に着いた。2年ぶりの日本だった。

 1年4ヶ月余りのトラジャ滞在中、幸い大きな病気もしなかったし、大きなトラブルもなかった。人類学は「青春の学問」だというが、私の青春を捧げたこれほど濃密な時間は、その後の人生には2度とめぐってこなかった。また、調査研究といいながら、日本の友人から送ってもらったさまざまな本、ウジュンパンダンの津田さん宅から借り出した本を乱読した。とくに、『水滸伝』や『ドン・キホーテ』などの古典を読めたことは私の人生にとってきわめて貴重な糧となった。

 この間、多くの人にお世話になった。日本政府文部省(当時)からは旅費と滞在費を支給していただいた。留学先のインドネシア大学での指導教授だったクンチョロニングラト先生にはたくさんの推薦状を書いていただき、人類学科のブディサントソ先生には研究と生活の両面でお世話になった。LIPI(インドネシア科学院)からはトラジャでの調査許可をいただいた。こうした支援がなければ私のトラジャの日々は成立しなかった。トラジャでも、当時の県知事J. K. アンディロロ夫妻、家主プアン・ミナンガとその家族、ティノリン村村長ハジはじめ多くの人にお世話になった。住み込み調査をおこなったミナンガでは、とくに生活を共にしたネ・ルケ、ルケ、ポーリー、滞在中に亡くなったネ・ピア、そして彼の後任だったネ・スレーマンに心から感謝したい。

 以下に、これから人類学を志す若い人へのメッセージとして、3点ほどまとめておく。

 第1に、民族誌データというものは「収集される」のではなく、調査のプロセスを通して「形作られる」ということである。LIPIに提出した私の調査の目的は、トラジャの民族誌データの収集だったが、現地に行ってもそこにデータがころがっているわけではない。データは現地の人びととの交流やさまざまな出来事を通して作られるものなのだ。民族誌的研究とは、調査のプロセスのなかで起こる(あまり計画されていなかった、しばしば偶然の)出来事をデータに変えていく方法なのである(註1)。連載した調査日記には、その日その日の出来事の記述を通してデータが形成されていく過程が克明に記録されている。

 第2に、私の調査テーマは儀礼(とりわけ死者儀礼)で、「儀礼があると聞けば出かける日々」が続いた。その成果は、『死の人類学』(内堀基光と共著、1986年、弘文堂)や『儀礼の政治学──インドネシア・トラジャの動態的民族誌』(単著、1988年、弘文堂)などにまとめられている。そのエッセンスを一言でいえば、人間とは儀礼的動物であり、社会は儀礼によって作られるということである。つまり、儀礼は社会にとっての「飾り物」ではなく、社会を作る仕掛けそのものなのだ。こうした考えが1976/78年のフィールドワークのプロセスを通して私のなかに定着していった。

 第3に、データは調査終了後も書き換えられ、更新される。その意味では研究は閉じられているのではなく、未来に向けて開かれているのである。県知事J . K. アンディロロ、家主プアン・ミナンガなど日記の登場人物の多くはすでに故人である。「トラジャその日その日」の連載中にもネ・ルケやフェンティ(プアン・ミナンガの孫の1人)の訃報が届いた。毎日井戸から水を汲んできてくれた少女ルケもいまでは孫をもつお婆さんである。当時27〜29歳の青年だった私自身、もう73歳の高齢者になっている。しかし、日記を読み返してみると、忘れられていた過去が蘇ってくる。つまり、過去は新しくなるのだ。そうしたなかで、研究も更新されていくのである。

 事実、1976/78年のトラジャでのフィールドワークのあとも、私は機会があるごとに調査/再訪/交流を続けている。1981年から83年の2年間は、トラジャでの調査をもとにアメリカ合衆国のコーネル大学、イギリスのケンブリッジ大学、オランダの王立言語・地理・民族学研究所で研究を深めた。1983年12月〜84年1月、および84年7月〜10月には、科学研究費補助金による東南アジア地方都市社会研究プロジェクトの一環としてウジュンパンダンに移住したトラジャ人の調査をおこなった(写真1)。1990年9月〜10月にはプアン・ミナンガの葬儀(写真2)、1992年10月〜11月にはJ. K. アンディロロの葬儀(写真3)に参列し(註2)、ミナンガを再訪した(写真4)。2008年と2009年のトラジャ再訪の折には、ネ・ルケやルケに再会した(写真5)。さらに、2021年2月、コロナ禍のなかFacebookを通してトラジャへの医療支援を計画した際、タナ・トラジャ県メンケンデック郡在住の医師アトンク・タンディアランさんにミナンガの現在の写真を撮ってWhatsAppで送っていただいた(写真6)。さらに、ジャカルタ在住のプアン・ミナンガの孫ライ・アティと連絡が取れ、同様にWhatsAppで彼女の家族の写真を送ってもらった(写真7)。いまやインターネットで調査地とつながる時代なのである。

 こうして、私の半世紀前の調査日記は過去への回顧録ではなく、未来に向けたメッセージとなる。日記を公開した理由はそこにあり、2週間に1度、約1年間の長きにわたる連載に付き合っていただいた読者諸氏に感謝するとともに、一緒に過去を新しくしていきたいと願っている。

 

註1 Fujii, L. A. 2015. Five stories of accidental ethnography: Turning unplanned moments in the field into data. Qualitative Research 15 (4): 525-539.
註2 この葬儀は、1993年1月25日、テレビ東京の月曜特集という番組で「トラジャ! 死者の祭宴・死ぬために生きる人びと」というタイトルで放映された。山下晋司 『バリ──観光人類学のレッスン』(1999年、東京大学出版会)第9章参照。

 

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写真1 ウジュンパンダンの墓地に建てられたトラジャのトンコナン(1984年)

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写真2 プアン・ミナンガの葬儀(1990年)

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写真3 J. K. アンディロロの葬儀(1992年)

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写真4 ミナンガ再訪(1992年、堀研撮影)

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写真5 ネ・ルケと子持ちになったルケとの再会(2008年、伊藤眞撮影)

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写真6 2021年のミナンガ(アトンク・タンディアラン撮影)

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写真7 ジャカルタに住むプアン・ミナンガの孫ライ・アティ(左から2人目)とその家族
(2021年、アティより送付。撮影者不明)

 


堀研のトラジャ・スケッチ

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